◆「そして人間の自由とは、演戯の自由のほかのなにものも意味しません」(福田恆存『藝術とは何か』41頁,中公文庫) 「演戯」を抽象化すれば意識的な仮面と意識的な素顔である。つまりまずは明確な意識で二つに分けること、分節することが必要となる。生真面目の融合無分別はこれと対極にある。
◆総選挙により、新分節議会ないし新分節政治と呼ぶべき高度の集中力を要する世界に突入した。諸項の理 logic を見極め切り結びながら創発の政治となるか、あるいはブレない言い切り・強硬姿勢・信念を貫く頑迷さで停滞と混迷に沈むか。単調な論理を乗り越えて、悠然たる視野で創造する政治を。
◆この世界という書物の記号を読み解きながら生きる「記号人間」(佐藤信夫)たる私たちは、作り示すモノの意図に逆らって「逆なでに読む」(C・ギンズブルグ)方法を身につける必要がある。押し付けられた諸項の接続秩序(分節体系)を自身のそれで切り結び返すことに、自由と創造の鍵が潜んでいる。
◆諸方策 分節:諸項の新生的切り結び 細部:個別性に宿る内包 範型:異化と類推 徴候:未知項の探求 範列統辞:虚世界への視線 *これを可能とする個の確立、これを支える私淑性・友愛性、これを支える諸基盤、これを織り成す自然と人工.前提たる無限の内包を有する流動して止まない現実.
◆マルチネの二重分節(言語の持つ経済性(有限の素材)と創造性(無限の現象)).「有限のことばを使って無限のものごとを表現する...」佐藤信夫『レトリック感覚』62頁).対象(文、文学作品、世界)に応じ分節の相貌はかなり複雑であり、縦にも横にもかつ何重にも取りうるのではないか。
◆分節(articulation)は、差異の確認であると同時に同一の確認である。また、分節は、分割と接続であり、単に分割されたままのことではない。対象を、あるいは対象と「切り結ぶ」ことである。*伊藤忠夫「分節についての覚え書き(1)」357-394頁,中京大学教養論叢,2000.
◆分節層.現実をつかむため言葉という分節認識体系を対象に投射(逆投射と不可分)する際には分節層を意識すること。分節層は抽象度の高低はもとより、動的・静的、規範・事実、コンテクスト範囲の大小等、またその程度差、これらの組み合わせから成る。原理上、分節つまりは認識の仕方は無限である。
◆まっすぐに固定された肘の状態でコーヒーを飲もうとするのはどうも不可能な気がする。関節という分節システムは有難い。絶え間ない流動性と無限の諸相を有する現実をとらえる際には、言葉に代表される分節認識体系ができるだけ多くかつ網目細かくあった方がよいと思う。やはり肩も手首も指も有難い。
◆仮現実(かげんじつ)(1)言葉という仮分節認識体系により対象を捉えるのであるから、世界は仮現実と表現すべきものである。仮であっても「現実」であるから通り抜けようとしてもぶつかる何かがある。しかし「仮」であるから現実認識の裁ち直しが可能となる。ここに人間の自由なる生の基礎がある。
◆現実とは厳然たるもの。気持ちの持ちようでどうにでもなるというものではない。他方で、言葉原理のコアをつかみ無限の分節層を自在にできれば、現実は新しい相貌をみせる。そこをつかむ。ないと思っていた次の足を踏み込む場が認識できれば、新しい一歩を踏み出せる。言葉の探究は実践論である。
安藤礼二氏の『縄文論』を読む。 『列島祝祭論』に続き一即多多即一がテーマになるとともに、特に一即多多即一を引き起こし動かすこと、「動的な媒介」が浮かび上がってくる。そして媒介としての言葉へ、象徴へ、「心」における分節へ。ここから”空海”へどうつながるか、楽しみφ(。。