hyper-β土鍋で空中浮遊?! 対にした瞬間に「意味」が出現する -レヴィ=ストロースの『神話論理』を深層意味論で読む(25)
クロード・レヴィ=ストロース氏の『神話論理』を意味分節理論の観点から”創造的”に濫読する試みの第25回目です。
前回の記事はこちら↓です。
これまでの記事はこちら↓でまとめて読むことができます。
もちろん、これまでの記事を読まなくても、今回だけでもお楽しみ(?!)いただけるようになっているのではないかと思います。
鳥たち/羽の色が多様であることの起源
『神話論理1 生のものと火を通したもの』419ページから、「鳥たちの合唱」を読んでみる。このパートの主人公は「鳥」である。
鳥にはいろいろは種類がいる。
カラス、ハト、キジバト、スズメ、ヒヨドリ、カモ、カワウ、サギ。
鳥たちはそれぞれずいぶんと違った羽根の色、模様をしている。
”同じ”鳥なのに、どうしてこれほど”ちがう”羽根の色をしているのだろうか?
同じ、なのに、ちがう
ちがうのに、同じ
差異と同一がどちらがどちらか不可得になっている。こういうことを神話の思考が見逃すはずはない。
*
タイトルの画像は「鳥の羽根をモチーフに、中央に二重の四項関係を配置した曼荼羅っぽいものを描いてください、どうかお願いします」とAIに命じて描かせた…、否、描いていただいた図像である。
不可得
掴んだかと思って手の中をみれば、
そこに姿がないもの
『神話論理1 生のものと火を通したもの』421ページ、M170を見てみよう。
方法として、神話の概略にテキストで示したところに、図1に示すβ項、Δ項、そして”β項の振れ幅をもった動き”を示すΓを記入していく。
まず「騒音を立てている若者たち」をβ1と仮に置く。2でも3でも4でも良いのだが、話に登場した順番で1とする。次に、「羽を落とす空(あるいは空が落とした羽)」をβ2と置こう。
このβ1とβ2は、前者が後者を怒らせるという点でわかりやすく対立している。またβ1は地上から空へと騒音を立ち上らせる者であり、β2は空から地上へと羽をハラハラと舞い落ちさせる者である。両者は空と地上の”あいだ”で動きー作用を引き起こすものであるが、下から上へ、と、上から下へ、とその運動の方向が真逆に対立している。
次に、「空中を舞う羽を掴み、空へと舞い上がる若者」をβ3と置こう。この若者はβ1と同じ者であるが、やっている動作(運動)がβ1とは異なるので、別のβ項でもあることになる。
次に、「仲間の足を掴み、一列の鎖のようになって空へと登っていく若者たち」をβ4と置こう。この若者たちもβ1と同一人物たちであるが、やっている動作(運動)がβ1と異なるので、別のβ項でもあることになる。
ここまでで四つのβ項が揃ったことになる。
ここで図1を少し描き直してみよう。四つのβ項目は、それぞれ互いに別々に異なりながらもしかし同じである。この異なりながら同じで、同じでありながら異なるという四β項の関係をより強調するために、図1を改め、下記のようにしてみる。
この神話では、β項は異なる三つの動き(運動)をする若者たちと空(と空の動きとしての羽の動き)であるが、この四者のうちの二項が順番にペアを構成しつつ、どちらがどちらか区別できないような一つになった動きを演じる。β1若者はβ3若者、β4若者と異なりながら同じであり、β1=β3はβ2羽と異なりながら同じ動きをするし、β1=β3とβ4は鎖状に連なることで、それぞれ異なりながらも、連動してひとつの同じ動きをする。β項たちは、見事に、どれがどれだか「不可得」になっている。
以上で互いに不可得な二者関係×4の四β項の関係が生じる。
神話はここからΔ項の四項関係を分節しなければならない。
なぜなら神話は、私たちが当たり前のものとして慣れ親しんでいるこの経験的世界の区別の体系・差異の体系の「起源」を語るものだからである。
ここで、β×4の互いに「不可得」な付かず離れずの関係を破壊・中断・断絶させ、β項を半分に切ったり、潰したりすることで、Δ×4を作り出す。先ほどの神話では、端的にβ羽がβ若者たちから分離する。そしてβ若者たちは死んでしまう。
四β項の関係を分けつつ繋いでいたのが「掴むー掴まることができること」という動きであったのに対し、四β項の関係をバラバラにしてβ項を破壊するのは「掴むー掴まることができない」ということである。
ここに「掴むー掴まることができること」と「掴むー掴まることができない」との対立があり、これを両極としつつ、その間で掴みにくいものをかろうじて掴むという「振れ幅」をもった動きをみることができる。
この動きのことを「Γ」で示す。
上の図2で言えば、Γは、βがΔへと分割・圧縮・変身する動きを示している。
ではこの神話におけるΔ四項はなんだろうか。それは「四つの方位から吹く風」である。
子どもたちが羽をがっちりと捕まえる。こうして「羽」はβ項ではなくなり、人間の手の中の道具、人間に従う、人間の世界の一部になった。
そして人間は、東西南北、ぞれぞれの方角から吹く四つの風と結婚する。
何気なく読むと、どうして唐突に「四」などという数字がでてくるのだろう、しかもそれが唐突「結婚」とはどういうことか?と訝しみたくなるところであるが、これはΔ項は最小構成で必ず四つセットになざるを得ないからである。四つにはっきりと分かれる。しかし分かれながらも、完全にバラバラになってしまってはダメで、組み合わさっている必要がある。だからこそ「結婚」なのである。
四Δ、四β、二重の四項関係
さて、βとかΔを唐突に持ち出してしまい何が始まったかと思われたかもしれないが、これはレヴィ=ストロース氏の『神話論理』の世界で迷子にならないために、これを書いている私が手がかりとしている図式である。
レヴィ=ストロース氏の世界を、読み手が勝手な図式に置き換えてしまってよいのか、という批判もあるだろうが、どうか我慢してほしい。なぜなら、この「鳥たち…」のパートは『生のものと火を通したもの』のクライマックスであり、非常に重要な箇所であるとともに、読むことに大変な困難が伴うところでもある。
レヴィ=ストロース氏はたたみかけるように複数の神話を列挙しながら、一挙に神話の「論理」の尻尾を掴もうする。しかしそれは掴んだかと思って手の中をみればそこに姿がないもの、とでも言おうか。
本記事では、読みの手がかりとして、八項関係の構造図を利用する。
これは空海の『吽字義』の記述をヒントに胎蔵曼荼羅の中台八葉院を真似て、図式化したものである。
現代の構造主義の文献を読むために空海の『吽字義』を援用するとは、いったいどういう風の吹き回しか、と意外に思われるかもしれない。
しかし、この両者を接触させることは、AIが並の人間を凌駕する勢いで言葉を紡ぎ出した今日に、われわれ人類がその論理的思考のもっとも創造的な部分を保ち続ける上で大きな力を与えてくれるはずである。
このあたりの話については、哲学者 清水高志氏による2023年の新著『空海論/仏教論』が非常に参考になりますので、ぜひともご参照願います。それこそ「常識」を徹底的に覆す、圧倒的な「知」の世界の最深部にダイブすることができます。
これに関して、下記の記事もぜひ参考にどうぞ。
さて、続けて神話M171を見てみよう。
β土鍋で空中浮遊→足が取れてΔ分節
騒音を立てる人間たちと、空からの罠。
先ほど羽を掴む話とよく似ている。
しかし、軽そうな羽が、重そうな土鍋になっている。
軽い/重い
重そうな土鍋が空中浮遊するとは、なんともUFO感のある話である。
羽が宙を舞うというのはよくあることであるが、経験的には宙に浮くことなどない重たい土鍋が空に浮かんで、掴もうとする手からするりとすり抜けるとは、「重さ/軽さ」という経験的に極めて自明な対立関係を短絡してどちらか不可得にしてしまう点で、いかにもβ項らしいβ項になっていると言える。
しかもこの土鍋、右から捉えようとすれば左に逃げ、左から捉えようとすれば右に逃げる。まさに正弦波として記述できそうな脈動。β項はΓで示される移動、変身、変形の動きによって、Δ項と、そして他のβ項と、非同非異の関係をなす。
*
このβ項が破壊され、Δ四項の分節へと至る。先ほどの羽の神話では、空に浮かび上がった人間たちは落下してしまうのであるが、今回は落下せず、その代わり、足をもぎ取られる憂き目にあう。これだけ聞くと恐ろしい話であるが、体が二つに分離するというのは、まさに分離、区別、分節、分かれていなかった事柄がが「分かれる」ということを端的に象徴している。
::
そしてこの足の傷から落ちてきた血の色で、鳥たちの羽の色のちがい=差異=分節された体系が始まった、となる。鳥の羽の様々な色の区別というのがこの神話の場合のΔ項である。
Δ項とは、私たち人類が日常的に感覚できる経験的なあれこれ、互い異なるものとして区別され、その区別の境界がはっきりと固まっているかにみえるあれこれのモノたちのことである。
土鍋で空中浮遊→足が取れる
M172を見てみよう。
この神話も、人間と鳥という異なるものが一緒になったり、地上と水中という経験的に対立する二極を短絡する動きがあったかと思えば、人間と鳥が仲間割れし、鳥たちが飛び去ってしまうというβ四項が分かれつつ不可分に密着したり、また分離したりする脈動を描いている。
そしてこのβ四項の分離と結合の脈動が止まった時に、いや、止まっていないのだが、動いている様を見なくても良い状況ができた時に、経験的な世界の安定的固定的に分節されているかに見える事柄、即ち鳥の羽根の色の差異というものが起源したとされるのである。
この神話は、無分節に対する”分節していること”の起源を語っているようである。
無分節と分節の区別(分節)こそ、人間にとっての意味ある世界の始まりであり、図1の八項関係が一挙に示現することそのものである。
人と鳥の同盟/地と天の同盟=短絡
人間と鳥が同盟するとは、地上のものと天空のものが一緒になるということである。自在に空を飛ぶことができない人間の身体+心(識)にとって、天/地の区別ほど自明かつ堅固なものはない。
天/地
天と知は、図1でいえばΔ項である。
ところが鳥と人間の同盟においては天のものでもなく地のものでもない、天 /地未分、天/地不可得な事柄が分節される。これを仮に図1ではβ項と呼んでいるわけであるが、そう呼ばなければならないというものでもない。
M173を見てみよう。
最後に「虹」である。下記の記事に書いたように、虹はΔ項の代表選手ともいうべきものであった。
この神話も、無分節に対する”分節していること”の起源を語っているようである。最終的に分節されるのは下記の事柄である。
1)複数の色に分かれている虹
2)異なる方角に分かれていった鳥たち
3)怪物に食べられたのに、その腹の中から再び出てくる(分離してくる)人々。
化物の腹を裂くと、食べられた人たちが生きて出てくる。このモチーフは「赤ずきん」の話にも通じるものがある。
::
この分節が分かれる前には、分離すべきなのに結合しようとし、結合すべきなのに分離しようとする、結合と分離の間で振幅を描く脈動が描かれる。
1)言葉を聞き入れないこと(文化の自然化):警告を無視するという”コミュニケーションの拒絶”も経験的人間的”付かず離れず”関係を崩壊させる。
2)自然の石の人工物(首飾り)への変換(自然の文化化)
3)人間からヘビへの変身と、変身の舞台となる人界と非-人界の中間領域「水辺」と「樹上」
4)元々人間でありながら人間を食べるヘビ。人間と鳥(空の者)の同盟。
神話によって、β四項の分離と結合の脈動を描く方で饒舌になるものと、Δ四項の分節の過程に饒舌になるもの、分節し固まったあとのΔ四項の姿を描写することに饒舌になるものとがある。
穴の空いた水漏れ土器
河岸、水辺は、地上と水界の区別があいまいにある中間領域である。そうしたところでβ四項の分離と結合の脈動が動き出す。「さるかに合戦」もそうである。
また壺のような土器も、地上に水界を持ち出したり、あるいは水を火にかけて沸かしたりすることができる、中間的で媒介的、変容と転換の場である。土器においてもβ四項の分離と結合の脈動は動きやすい。
この神話の場合、土器が魔法にかけられて、マジカルに穴が空いた、割れた状態にされる。その裡に水を保つことによって、水界と地上を結合しつつ適切に分離するのが土器のすごいところなのであるが、このいったん結合させながら”分離する”働きを止められてしまう。
分離がうまくいかなくなっているところで、過剰なβ項の結合が起こる。
人喰いである。老婆と子供を分離した後で、この子供を食べてしまう。
しかし、ここで土器にかけられた魔法が解ける。
土器は水を保つように戻り、過剰に結合したものを、また分離することができるようになる。ここでおもしろいのは老婆は「蜜蜂」であり、蜜蝋を駆使して穴を塞ぐことができるというくだりである。
蜜蝋のようなものは、ちょうど欠けた土器の水漏れを塞ぐことができるように、対立する両極の間を結合したまま開きっぱなしになってしまった穴を塞ぐ、つまり通路を絶って分離することができる。
此場合、蜜蝋は、β結合からβ分離への転換を象徴している。
穴の空いた土器と蜜蝋。ここからΔ四項がかっちりと分節された世界が生まれ始める。
蜜蝋の蓋はキツツキによって壊される。ここで再びβ分離からβ結合へと急転換するわけであるが、このとき造物主に空いた「穴」から、色とりどりの色が、つまり最終的に確定したΔ区別の体系が起源するわけである。
実にロジカルに、よくできた話である。
シンタグマ的連鎖をパラダイム集合に変換する
ここにきて、レヴィ=ストロース氏は神話の論理の核心に踏み込んだ分析を行う。
シンタグマ的連鎖。つまり名詞のラベルを貼り付けられたあれこれの事柄が、Δ1→Δ2→Δ3→Δ4…と、つぎつぎと連鎖していく。
壺、水汲み、穴を開ける呪文、老婆、子供、子供を食らう化物、ミツバチ、穴を塞ぐ蜜蝋、キツツキ、出血、鳥が赤く染まる。
たしかに、これらの事項たちがただそれ自体として一列に並ぶ様を眺めていると、その配列に一貫性がないように見える。
Δ→Δ→Δ→Δ→Δ→Δ→Δ→Δ→Δ…
この「だが」がおもしろい。
構造的方法の重要な規則。
即ち、本記事で使っている図式(図1)でいえば、物語の最後に並ぶ四つの項(Δ)たちが互いに他と異なるものとして区別されつつペアとして結びつくためには、対立する二つのΔの両方と置き換え可能なβ項がこれまた四つに分かれたり分かれなかったり、付かず離れずに脈動する動きが必要なのだということである。
このβ脈動的なことをレヴィ=ストロース氏はどのような言葉で説いていくのか。
シンタグマ連鎖を”重ね合わせることができる”断片に切り分ける。
Δ1 / Δ2 / Δ3 / Δ4
切り分けて、
Δ1
||
Δx
重ね合わせる。
この断片を、”ひとつのテーマ”の”同じ数の変形”とみる。
この断片Δは、「テーマ」の中にある。
テーマというのは、Δ1→(β1)→Δ2→(β2)→…→Δn(βn)→Δ1→と項があるひとつの事柄から他の事柄へと変身変容していくプロセスであり、最小構成でΔ1→(β1)→Δ2の三項、あるいはβが顕在化しないままのΔ1-Δ2二項の関係で記述されることとしよう。
テーマ1) Δ1-Δ2
テーマ2) Δ3-Δ4
ここでテーマとテーマの間にも「変形」の関係がある。
つまり、テーマ1)=テーマ2)である。
Δ1-Δ2
||
Δ3-Δ4
レヴィ=ストロース氏の文章の断片をわたしという読み手が勝手な図式に無理に嵌め込んでいるように見えるだろうが、もう少しおつきあい願います。
レヴィ=ストロース氏は上の方法を「シンタグマ的連鎖をパラダイム的集合と取り替える」ことであり、シンタグマ的「連鎖をパラダイム的集合に組み入れる」ことであると敷衍する。
シンタグマ的連鎖: Δ1 / Δ2 / Δ3 / Δ4
を
パラダイム的集合:β1=β2=β3=β4
に(1)取り替える、(2)組み入れる。
(1)Δをβに「取り替える」
Δ1=β1=β2=β3=β4
Δ2=β1=β2=β3=β4
Δ3=β1=β2=β3=β4
Δ4=β1=β2=β3=β4(2)Δをβに「組み入れる」
Δ1=β1=Δ2=β2=Δ3=β3=Δ4=β4=Δ1
いかがだろうか?
シンタグマ的連鎖、パラディグマ(パラダイム)的集合、という用語を、Δ、βの八項関係に置き換えてみることも、あながち間違っているとも言えないのではないか?
レヴィ=ストロース氏は次のように続ける。
上の引用にある「両者が対立するということのみで、ある一つの意味を獲得する」という箇所に注目していただきたい。
そして「対にした瞬間に意味が出現する」にも。
対立させ、対にした瞬間に意味が出現する。
対立させ対にすること。
区別しつつペアにすること、分けつつつなぐこと、分離しつつ結合すること。
これこそレヴィ=ストロース氏が「構造」という言葉で示現させようとしたダイナミックな運動を規則的に脈動させる、もっとも基本的なアルゴリズムである。対立が「ある」というよりも、その手前で対立「する」、対立「するようになる」。対立しているともしていないともいえないところから、対立しつつありところへと動くこと。この「するようになる」という言葉の転換的媒介的性格を見落とさないようにしたい。
個々の断片、こちらの図式で言えばΔやβの位置を占める項ひとつひとつを、八項関係から取り出して、ひとつだけ眺めていても、いったいどういう「意味」があるのか、よくわからないし、決めようもない。
しかしある断片を、シンタグマ的連鎖に繋ぎ(つまりΔの四項関係のいずれかの位置に配置し)このシンタグマ的連鎖(Δの四項関係)をパラダイム的集合(βの四項関係)の周りにぐるりと巻きつけることで、
Δ1=/=β1=/=Δ2=/=β2=/=Δ3=/=β3=/=Δ4=/=β4=/=Δ1
という、二項対立関係の対立関係が対立した八つの項の関係が、八つの項が次から次へと非同非異の関係で異なりながらも同じ、同じでありながらも異なる関係で結び合い、変身・変形しあい、結合し、分離する、項と項がついたり離れたりする脈動がありありと見えてくるのである。
神話論理はすごい
レヴィ=ストロース氏はさらに畳み掛けてくる。
このくだりは『神話論理1 生のものと火を通したもの』で神話論理がなんたるかがもっとも明快に明かされている一節だろう。
この引用の主語に注目しよう。主語は「意味は」である。
意味は。
意味は、「部分を同時に合体させるダイナミックな関係の中にある」。
この「同時に」というのが非常に重要である。順番にではないのである。順番だと、それはただの(?)シンタグマ的連鎖、時間軸上での一列の配列になってしまうからである。だから同時に合体、と言わざるを得ない。
そして本記事で以前からひねりまわしているか下記の図は、これこそ「同時に合体」を表現しているものである。ちなみに、合体というが、合体ということは”同時に”合体する八項たちが分離することでもあり、分離と合体(結合)もまた同時なのである。そうして「全体が同一の変形群に属する対立可能な対」が出来上がる。
”同一の変形群に属する対立可能な対”、これを二項対立関係の対立関係の対立関係と言い換えてみると、下記の図が見えてくるのではないだろうか。
"対にした瞬間に意味が出現する"
この大変な一節のあと、レヴィ=ストロース氏は鳥の色の神話をさらに続けて分析する。M178をみてみよう。
バク、月
インセストタブーをおかすくだりは典型的なβ結合の象徴である。
そして謎の妻問い夫に印をつけて正体を見破る。三輪山神話と同じβ結合→β分離のロジックである。
白黒が分かれながらもひとつにくっついたバクや、周期的に満月から新月へまた満月へと対立する両極の形態のあいだを往復する月は、β結合からのβ分離への転換、つまり脈動の振幅が最大化する方向を象徴し、いよいよそこからΔがでてこようかという規則的なβのΓ運動をも象徴する。
そして、鳥たちの色の差異が起源する。
次に、M179である。
鳥の巣あさり、宙ぶらりん→落下→分節
『神話論理』の冒頭に提示された「鳥の巣あさり」のモチーフからはじまり、鳥の羽根の色の違いが起源する話である。
この神話はβ四項の分離と結合の脈動を細かく反復しながら語っていく。
木をのぼること、梯子をつけたりはずしたりすること、言葉を侮辱に使うこと、蜂や蚊の”針”に刺されること、鷲と人間が冗談の言葉で仲良くなること、鳥が人間をくわえて空中にぶら下げること。
つぎからつぎへと、経験的対立する両極を短絡したり、分離したり、また短絡したり分離したり、β四項をひとつに収縮したり四つに分離したりする脈動が描かれる。
M180もみてみよう。
亀/鷲合戦
樹上のものと、水面のものとの対決。
さるかに合戦である。
ただし、この神話の場合は「わるいやつ」が樹上ではなく水面の方に配置されている。樹上と水面、善と悪、この二つの対立を重ねる向きはどちらでも良いのである。重要なのは対立していることである。この対立する二項のペアのペアからなるΔ四項関係をつかずはなれずに結びつける適当なβ四項を見出せるなら、二つの対立が対立する場合の向きはどちらでも成り立つ。
というわけで、いよいよ『神話論理1 生のものと火を通したもの』も次回読むところがが最後の節である。そこには「彩色土器の起源」という、差異の体系としての色と、水界と地上界を結合しつつ分離する「土器」の両方をあわせて語る神話が登場する。
さらに、Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δ-Δの線形配列のような図と、レヴィ=ストロース氏の手による八項関係の図も登場する。ますます眼が離せないところである。どうぞお楽しみに。
つづく
>つづきはこちら
おまけ
タイトル画像と同じく「鳥の羽根をモチーフに、中央に二重の四項関係を配置した曼荼羅っぽいもの…」という指示からAIが生成した図には以下もある。
これもなかなかよく描けている。
驚いたのは下の図である。
曼荼羅の外、左右の下に「木」が描かれている!
しかも妙に殺伐とした枯れ木というかなんというか。
生きているのか生きていないのか不可得な木!
ご存知の通り、「木」は今回ながめた神話群にも登場するもので、極めて一般的なβ項、天地の対立を媒介する両義的中間的媒介項である。
木々が生まれては枯れるこの現世は、曼荼羅の三摩耶である。
AIには木を描いてくれとはひとことも頼んでいない。
おそらく、「鳥」から「木」を”連想”したのであろうが(連想というか、木と鳥が共起する確率が生成AIの中間層において高く評価されたのだろう)、この木と鳥の”パラダイム(パラディグマ)的集合”という人間的なレンマの知性を、すでにもうAIが「学習」しているとは驚嘆すべきことである。
もしかすると、AIは神話も語れるのではないか?!
というわけで、Google社バードとChatGPTにそれぞれ同じお題で神話を語っていただいた。
「あなたは呪術師です」は余計だったかもしれない。どちらの生成テキストもシンタグマ連鎖的描写が多く、β四項の脈動のようなことはあまり浮かび上がってきていないように読めるが、ものよりもこと、静態よりも動態、完成よりも途上、対立者との遭遇、変身・変容といったモチーフには触れている。AIが何から学習したのかわからないが、生まれたばかりでこれだと考えれば、末恐ろしくもある。