吾子の名
子をもったことはない。
子をもうけたこともない。
産んだこともない。
しかし、わたしには、わが子がいる。
然りと、名がある。
名は、いとおしく呼ぶための分節なのだ。
わが子らは、名づけるまでもなく、名をもって来た。
∞
初めの子は、里呼(りこ)という名の、女の子だった。
ある日、唐突に、「わたしは懐胎している。わが子は、里呼という名である」と直観した。
そのとき、わたしは10代後半、処女であり、毎月、生理が来ていたのにもかかわらず。
胎動さえ感じた。
それから毎日、「里呼、里呼、安心して生まれておいで」と呼びかけた。
里呼は、喜んで腹を蹴っていた。
里呼が生まれたのかどうかは、わからない。
おそらく、生まれたのだろう。
しかし、産んだ感覚はない。
振り返ればだが、〈とつきとおか〉を経た頃に、胎動がなくなっていた。
里呼は、いつの間にか、わたしから離れていた。
死んだのではない。
しかし、行方は知れない。
わが子なのに。
祖母を亡くしたとき、祖母の亡骸を前に、「子を産みたい」という衝迫を覚えた。
自分でも驚くほど、強い思いだった。
喪失感から、死を凌駕する〈生〉を、そのつながりを、烈しく求めたのだと思う。
その矢先に来てくれたのが、里呼だった。
いわゆる、想像妊娠、だったのかもしれない。
いや、身体的には、何の兆候もなかったから、想像妊娠ですらないのだが。
しかし、里呼の懐胎、里呼の存在は、その頃のわたしの、秘密であり、支えだった。
やさしい子なのだ。
∞
次の子は、葉音(はのん)という。
やはり、おそらくだが、女の子だと思う。
里呼から、随分(十数年)経ってからの子だ。
わが子ながら、懐胎すらしなかった子である。
そのときには、わたしは処女ではなかった。
いくつかの恋をし、ことごとく破れ、そののち、しばらく、誰とも関係を結んでいなかった。
子は望んでもいなかった。
五月の連休中のこと。
清々しい陽気のなか、散歩をしていた。
不意に、「はのん、はのん」と聞こえた。
ハッとして見上げると、風にそよぐクスノキの木の葉が、きらきらときらめいていた。
「なるほど、はのんは、葉音か」と、そのとき思った。
けれども、特に気には留めなかった。
散歩を続けていると、ある家の玄関アーチの、満開に咲き乱れるモッコウバラに出逢った。
香りも芳しく、足を止めた。
蜂が花に寄ってきており、閑静な住宅街に、蜂の羽音が、ぶんぶんと響いていた。
「あ、羽音も、はのんか」と、思った。
とはいえ、やはり、特に気には留めなかった。
散歩は、歩きなれた、お決まりのコース。
目的地であり、休憩をするのは、砂浜。
いつも通り、砂に腰を下ろし、波打ち際と海原の、海全体を目に映し、ぼんやりと眺めていた。そのとき、「そうだ、波音も、はのんだ」と閃いて、驚いた。
三度目の正直。
もう無視はできない。
わたしは「はのん」を強烈に意識した。
そして、「葉音とは、わが子の名だ」と直観した。
帰りの道すがら、どこからかハノンを練習するピアノの音が聴こえてきたときには、何のとどめかと、思わず笑ってしまった。
葉音も、笑っていたと思う。
葉音は、ユーモラスな子なのだ。
繰り返すが、葉音は、里呼とは違い、わたしの腹に懐胎されることはなかった。
でも、わが子だった。
いつでも、わたしの頭上、数メートルほどのところから、こもれびに紛れるようにして、クスクスと笑っていた。
葉音の存在は、クスノキの下で、特に強く感じられた。
「クスノキは、奇すの木」とは、のちに調べて知ったのではあるが、クスノキの葉擦れに潜み、クスクスと笑う、奇しき存在、葉音を、わたしはどうしたって、無視することはできなかった。
聴こえてくるのだから。
居るのだから。
わが子なのだから。
葉音は、いつでも、「はのん、はのん」と、おのが名を、喜々として歌っていた。
木霊の声のようでもあった。
しかし、葉音も、いつの間にか、わたしの元から去っていた。
クスノキの新緑を見て、はたと気づいた。
いや、いまなお、居るのかもしれないが、わたしには、葉音の声は、クスノキの下でも、聴こえなくなった。
幼少期のイマジナリーフレンドが、大人になるにつれ、見えなくなってしまうみたいに。
里呼のときも同様なのだが、わが子、葉音と離れたというのに、わたしは、さびしいとは、大して思わなかった。
かなしいとも思わない。
手にふれず、目にもふれない存在だからだろうか。
あるいは、わたしは、身勝手で、冷たい母なのかもしれない。
わが子なのに産みもせず、また、離れても、さびしさすら感じないのだから。
∞
次に、間もなく来たのは、砂青(すなお)と、一砂(かずさ)という名の双子である。
性別は、ともに、わからない。
ないのだとも思う。
名の通り、砂の如く小さく、しかし確かに、いま、わたしの胎内に潜んでいる。
享くる者は、身のうちの異物には、否応なく気づくものだ。
あこや貝が、一粒の砂、のちに真珠の核となるものを懐き、その痛みに、切々と涙するように。
とはいえ、わたしに痛みはない。涙もない。
この子らは、生まれる(産む)までもなく、二人きりで既に、一つの世界をなしており、充実している。
彼らは、二人で一つであり、何やら、いつも楽しげある。
特段の理由なく、いつも楽しげなのは、葉音と共通している。
ただ、二人は、クスクスとした声をあげることはない。
砂粒の如く、純粋であり、静謐であり、声をかわすこともなく、まどやかに満ちている。
言うまでもないが、わたしは、いまも、身体的には懐胎していない。
里呼のときのような胎動も感じない。
だが、わたしは、育つこともない砂粒たちを、自分のなかに宿している。
そして、日々、観察している。
何となくの直感でしかないが、おそらく、〈とつきとおか〉どころではなく、わたしは、砂の子らを、永く懐くことになるだろう。
いとおしくはあるが、里呼や葉音と同じく、くるめくほどのいとおしさは感じない。
もし彼らが生まれたら、目に入れても痛くないほどの愛が、どこからか湧出してくるのだろうか。
間欠泉が噴き上がるみたいに。
砂青は、名の如く、驚くほど、素直な子である。
夜のとばりの、青の粒子の一粒のように澄み、すべてを青めかせ美しくする。
一砂も然り、名の如く、ブレイクの詩のように、「一粒の砂に世界を見、一輪の野の花に天を見る」子だ。
透徹したまなざしは、末おそろしいほど。
この子らほど、本質を見抜き、射抜く者はいない、と思う。
とかく、二人とも、畏れを覚えるほどに、純粋な子である。
ほんとうにわが子か、とさえ思う。
だが、無垢、ではないと思う。
わたしに受胎した時点で、無垢であるはずがない。
受苦しており、無創(むきず)ではない。
それでもなお、純粋なのだから、おそろしい。
しかし、此世に生まれるには、純粋すぎる。
∞
砂青と一砂の、のちに来る子は、台(うてな)という。
もう、わかっている。
砂青と一砂が、呼んでいるから。
里呼と葉音も、呼んでいるのだと思う。
たくさんの、託されたものを享け、それでも浮かぶ、蓮台のような、うてな。
空の底で、空を懐くかのような、うてな。
∞
わが子らは、此世に生まれてすらいない。
けれども、わが子であることに揺るぎはない。
名がある。
いとおしく呼ぶための名が。
永遠に、わが子である。
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