『言ってることとやってることが違う』言われたことありますか?私はあります(笑)。言ってることは“理想の自分”。やってることは“今の自分”。どちらも本当の自分。まずは“今の自分”に寄り添う。「こんなことやってるね」と声をかける。そして一緒に“理想の自分“になろう。そう伝えて下さい。
凄く身体が疲れているのに…何かしなきゃと焦ってしまい…全然休めないASD併発ADHDだった私… 休めば良いのに休めなくて…お酒飲んじゃうなぁ…お酒飲めば寝れるから… うむむ…困ったなぁ
昨日少し前までの仕事のパートナーと急遽ランチ。1ヶ月前まで当たり前のようにやっていたことがとても昔のことに思えて「わたしのキャパでは抱えきれん大変さ」を実感させられたというかなんというか。一方で、今の仕事が体感3ヶ月目くらいに感じる、なんとも不可解な感覚🤷♀️
長男が生まれた時、寝不足というものがこんなにも人間性を崩壊させるのかとつくづく思った。子育てなど何もしなかったはずの父が、夫にそれだけはケアしてあげて欲しいと言っていたのも印象的だ。母も崩壊したのだろう。そして今、ただならぬ多忙の中にいる私はそれに近い状態にあるようだ。気をつけよ
結局のところ、地道なことの積み重ねである。小さなことを積み重ねての今という結果である。今あるものに感謝してというのは、そういうことだろう。ないことよりあること。できないことよりできたこと。それを大切にしながらも、登りたい山を見失わない情熱と意志と冷静さ、客観性。自戒をこめて。
そうか、私が今から始めようとしていることは、自分は本物の味方なのだと身をもって知るプロセスなのだ。注目されることもなく、褒められることもなく、でもただ自分の意思で決めたこの約束を、腐らずに続けてやり遂げる、それだけの、でもそんなにも素晴らしい体験なのだと、わかることなのだ。
Delightfulであること、を意識して大切にしたいと思っている、どんな時も。それは無理したり我慢してできるものでは決してなく、できない自分も許し受け入れ、醜い自分から目を背けないことでもある。それでも腐らずに前を向くにはどうしたら良いのか。考えて実践し諦めないことがテーマだ。
私の人生だ。私が好きなこと、やりたいことを選択し、欲張って生きていくのだ。そのために境界線を引くことは自立だ。突き放そうってわけじゃない。感情に流され、いつの間にか期待に応えるべく自ら決定することを忘れかけていた依存という甘美から抜け出し、私の意思で選び直していく、ということだ。
私の居場所はいつもここにある。自分の内側にいつもある。外側に居場所を見つけようとすると、どう思われているかという評価に囚われて自分が不在になりがちだ。寄りかかりすぎずに自分で立っていることは、心地よいコミュニケーションの土台となる。それに必要なのは自分自身との対話だと私は思う。
出逢いも別れも多い季節。年度の節目だけでなく、時代の節目だからこそのそれも起こっているよね。慣れ親しんだ愛おしい関係を握りしめたくなるけれど、自らのその手を放す、その切なさの中にはきっと、感謝と信頼が満ちている。言葉で伝えなくとも、相手と自分の間で循環しているのを感じる。ありがと
自分に曇りがないかを確認する時間は、自分とのつながりを感じて安心する。もし曇りに気付いても、そこにジャッジを挟まなければ、それはただ安心なのだ。どんな自分も置いていかない。見捨てない。でも甘やかしすぎない。それは、やはり私自身が成長したいという欲が強いことを知っているから。
目標を立てることはほぼしてこなかったけれど、誰かのために自分の力を使いたい、という純粋な自らのwantを満たしてあげるためにはとても有効だと気付いている。源泉が自分の内側にある目標であれば、それが具体的に描けるほどにワクワクの濃度が濃くなり、実行したくなり、結果は当然ついてくる。
熱意が大事だと、つくづく思う。どんなに優秀な経歴でも、そこに熱意がなければ響かない。様々な経験を通してしか語ることのできない言葉があり、乗せることができない熱さがある。それは結局、自分自身に対する興味関心であり、自分を生かそうとする決意であるように思う。
本質的な充実に満たされた時間を過ごしていると、他者からの評価という視点が微塵も存在しないことを感じる。ただその「今」への感謝と、ここから続く「未来」という、もうすぐ出会う今が満ちていくであろう悦びというチカラ。迷いなく今を生きながら、私自身をより表現したいという欲望を大切にしたい