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過去のわたしは別の人

わたしが最近書いたnoteを読んでくださった方が、過去に書いたものまで遡ってスキを押してくれたりします。

うれしい。

わたしも「この人おもしろい!」と思ったとき、同じように過去作を一気読みしたり、します。

わたしに、いちどきにスキを20個くらい押されて困惑された方、いらっしゃいますでしょ。

あなたですよ!(こわ)

小説家も脚本家も映画監督も、「見ーつけた…!」というトイレの花子さん的瞬間があって、出会ってしまうと同じように、過去作を出来うる限り追ってしまいます。

一方、かの有名なチャップリンは、新聞や雑誌の記者から「あなたの最高傑作は?」と聞かれると、いつも「NEXT ONE(次回作だよ)」と答えていたそうです。

チャップリン、それ、わかる!!
(急にどした?)

というのも、

2か月前のnoteを書いたのは、2か月前のわたしなんです。
昨日のnoteを書いたのは、昨日のわたしなんです。

過去に書いたものを褒められたとき、書いたのは紛れもなくわたしだから、とてもうれしい。ありがとう。
ただ、ほんの少しだけ引っ掛かりがあるのです。

それ書いたの、過去のわたしなんでっていう。
今のわたしじゃないんで、もはや別の人なんでっていう、過去の自分に対する…嫉妬?のようなものを、ほんのポッチリとだけ、感じるのです。

同じように
「あなたにあのときこう言われた」とか
「あなたはあの場面でああ言っていた」とか
過去の発言をほじくられると
ちがうちがう、それ、わたしじゃないです。
過去のわたしなんですって思います(わたしなんですけど)。

人の考えというのは移り変わるものだと思うのです。
たとえば、ハラスメントっていう概念を知らなかったときと知ってしまったあとでは、嫌がらせを受けたときの感覚が異なりますよね。
他者への接し方も変わってきます。

フェミニズムの本を1冊でも読んで、ホモソーシャルから派生するホモフォビア・ミソジニーといった仕組みが腑に落ちてしまうと、今まで見ていた世界が歪んでしまって、もう後には戻れません。

不可逆。

元に戻るなんてことはない、と過去のわたしも書いています。

ちなみに、過去作を読み返して「ほお、わたしってば結構いいこと言ってるじゃないか」と悦に入るのも結構好きです(ヘンタイ)。

だから、2年前に書かれた誰かのnoteを見て「いい」と思ってスキを押したら、可能な限り最新作も読んでみるようにしています。

そうしたら、お考えがすっかり変わってしまっていて驚愕することもありますが、それもそれで世は面白し、と思うのです。

↓ 元に戻るなんてことはない、と書いた記事はこちら。

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