美術史第91章『弘仁貞観文化・国風文化の美術-日本美術5-』
8世紀末期、当時天皇になっていなかった天智天皇系の光仁天皇の次に即位した桓武天皇が十年前に「平城京」から遷都していた「長岡京」からさらに「平安京(京都)」に遷都、これ以降の日本では19世紀まで京都に首都が置かれることとなり、桓武天皇は直接政治を行って律令制を再整備し坂上田村麻呂の東北遠征などを行う一方で中国文化を取り入れた。
平安初期は新しい形の仏教が栄えた時代で、唐王朝に留学した仏僧で中国にあった密教を教えられた空海による「真言宗」、法華経を経典とする最澄による「天台宗」が誕生、これらと神道の「神仏習合」も起こり、これらの唐の強い影響は文学や美術など文化面でも大きな影響を及ぼし、「弘仁・貞観文化」が形成された。
晩唐文化の強い影響を受けた平安京を中心とする「弘仁・貞観文化」では漢詩の詩集が多く編まれ、中国の歴史や漢文を取り入れた貴族教育が始まった他、建築分野では「比叡山延暦寺」や「高野山金剛峯寺」など飛鳥や奈良などの都市部ではなく山中に建設される寺院が増加し伽藍配置が比較的に自由になり、古代から存在する日本独自の「檜皮葺」も多く使われた。
彫刻分野では新たな仏教の影響で仏像制作が本格化、奈良時代に多く造られた金銅仏、乾漆造、塑造などは消え、一木造で着衣が波打つ翻波式の特徴を持つ木造仏が増加、元興寺の薬師如来像、観心寺の如意輪観音坐像、室生寺の釈迦如来坐像、東寺の不動明王像、薬師寺の僧形八幡神像、新薬師寺の薬師如来坐像、神護寺の薬師如来像などが造られた。
また、絵画の分野では密教関連の絵が多く描かれ『黄不動(園城寺不動明王像)』、『真言院曼荼羅(西院曼荼, 羅東寺両界曼荼羅)』、『高雄曼荼羅(神護寺両界曼荼羅)』、『西大寺十二天像』などが描かれ、中国の伝統だった書道の分野でもこの頃には真言宗の空海、嵯峨天皇、橘逸勢という最も優れている「三筆」と呼ばれる書家がおり、空海が最澄に宛てた手紙である『風信帖』も上記の絵画や彫刻と共に国宝となっている。
9世紀後半、有力氏族で奈良時代の一時期も権力を握った藤原氏に属す良房や次の基経が摂関として開墾と土地課税重視の政策を進め、次の時平は菅原道真を左遷して実権を握り律令制を進めるが、時平の死後には忠平が再び土地課税方針を取り、これらの結果「荘園」つまり私有する領土が拡大し、藤原道長などによって法整備が進んだ。
また、桓武天皇が全国に駐屯していた「軍団」が廃止した事で、治安維持が不可能になり特に辺境だった関東では富豪層が自衛のための武装を開始、彼らは土着の下級貴族を取り込んで「武士」になっていくこととなる。
こうして、政府がすべての人々を治める前提の律令制は崩壊、政府は人からではなく土地から税を取りこれを国司が統括するというシステム「王朝国家」となり、また、藤原氏によって政治が仕切られる「摂関政治」も確立された。
また、王朝国家へ向かう改革が始まった頃の日本は、国力の衰退から菅原道真の提案で遣唐使を中止、この頃から中国の影響が非常に強かった思想や美術など多くの文化は日本独自のものへと変化を始めることとなり、これら平安中期の日本文化の発展は「国風文化」と呼ばれる。
ここでは漢字を元に字で意味ではなく音を表す「仮名文字」が発明され、文学では「漢詩」ではなく「和歌」も発展して和歌を集めた『古今和歌集』などが編纂され、作者不明の『竹取物語』や『伊勢物語』、世界で最も著名な文学作品の一つである紫式部の『源氏物語』という長編小説や、エッセイ的な清少納言の『枕草子』や紀貫之の『土佐日記』など非常に多くの優れた「国文学」が制作され、このような文学作品は大和絵や書道、工芸品のテーマとなった。
思想面では9世紀中頃に1052年が釈迦の正しい教えが行われなくなる年であるという「末法思想」が流布されたことで、天台宗の円仁が中国から持ってきた極楽浄土に成仏する事を説く「浄土教」という思想が空也や源信、良源などにより大流行、仏教美術や仏像、絵画に大きな影響を与え、また、極楽浄土へ行けるよう願った貴族たちにより各地に、浄土宗で唱えられた「南無阿弥陀仏」という浄土へ行ける呪文の阿弥陀如来を安置する『平等院鳳凰堂』などの阿弥陀堂が多く作られた。
「平等院」に代表されるような極楽浄土を再現しようとした金堂や仏堂などの寺院建築の前に池が広がるという「浄土式庭園」もこれにより確立され、浄瑠璃寺庭園、毛越寺庭園、平等院庭園などはこの様式に属す。
また、他にも建築の分野では貴族住宅が「寝殿造」の様式で建てられ、また、書道の分野では「三十六人家集」という写本や「三跡」と呼ばれる小野道風などの三人の書道家が活躍、仮名文字による書道も書道の古典「高野切」などが書かれて発展した。
絵画では中国画にとらわれない「大和絵」が発達し仏教絵画、月次絵や四季絵と呼ばれた景物を描いた障屏画や壁画、絵巻物などが多く製作されたが、現在では仏教絵画以外はあまり残っておらず、彫刻では定朝という仏師により阿弥陀如来像を大量生産するために分けて造った部品を組み立てる「寄木造」の技法が確立され、彫りが浅く平行して流れる衣文、丸い顔と細い目の安らかな表情を特徴とする「定朝様」の仏像が造られた。
工芸では日本刀の鎬造、反りのある彎刀の独自の様式が確立され、天国による『小烏丸』や三条宗近による『三日月宗近』、安綱による『童子切』などがこの頃に作成され、漆器の表面に漆で絵や文様・文字を描いて金や銀などの金属粉を蒔いた「蒔絵」の技法もこの頃に発展した。