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詩と日記

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#小説

言葉の檻のなかで吼えている獣 中島敦の詩的遍歴 #4 「文字禍」

言葉の檻のなかで吼えている獣 中島敦の詩的遍歴 #4 「文字禍」

言語の限界と「現象to現象」

僕たちは膨大な情報量の世界を見ています。あるいは、夢を見て、目覚めたあと、誰かにその夢の光景を語ろうとする。ポツポツ……と思い出した光景の断片を言葉にしていく。が、まったく夢の全貌が伝わらなくてもどかしい。などということは日常的によくあるわけで、僕たちはものを「考える」とき、言語外の認識もしているのです。そして、それを、自分なりに「落とし込む」ときに、言語化するんで

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ENDEAVOUR PROJECT 詩的履歴書

ENDEAVOUR PROJECT 詩的履歴書

「詩人」でありたいのであれば、つべこべ言わずに「詩集」の一冊でも編まねばならない。

「詩人」とはなにか、といった話をしていけば、「詩集」なんか出さなくてもいいのだという話になるのかもしれませんが、それではなにも前に進まない。

どんな理由があろうと「詩集」をつくりあげるというのがいまの僕の目標です。

※この記事はプロフィール記事としてアップします。

詩を書きはじめたのはいまから10年以上もま

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言葉の檻のなかで吼えている獣 中島敦の詩的遍歴 #3「木乃伊」

言葉の檻のなかで吼えている獣 中島敦の詩的遍歴 #3「木乃伊」

亡霊が見ている

みなさんは旅行に行く際に、事前に下調べをするでしょうか。
せっかく行くのだから、観光名所と呼ばれるものはすべて見ておきたい。そんな思いから、事前にどんなところか調べて行く人が多いのではないでしょうか。近頃はSNS上にいろんな写真があがっていますから、ああこんなところかあ、なんて感心してから行って、ああ、やっぱりこんなところかあなんて言って帰ってくるなんてことは多いでしょう。まあ、

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言葉の檻のなかで吼えている獣 中島敦の詩的遍歴 #2「狐憑」

言葉の檻のなかで吼えている獣 中島敦の詩的遍歴 #2「狐憑」

動物の歌

今回も中島敦の歌からはじめましょう。動物園でも見に行ったのでしょうか。
他にも狸だとか黒豹だとか孔雀だとか縞馬だとか梟だとかいろいろといるわけですが、なかなかの乱暴を働いている歌ですよね。駝鳥をみて、「こいつ骨董屋で見た顔だな……」ですからねえ。かなりお茶目な感じだったのでしょう、敦くんは。

とういう冗談はさておき、僕はこの動物への共感と眼差しにはちょっと思うところがあります。これも

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言葉の檻のなかで吼えている獣 中島敦の詩的遍歴 #1「古譚」のなかの「山月記」

言葉の檻のなかで吼えている獣 中島敦の詩的遍歴 #1「古譚」のなかの「山月記」

中島敦の遍歴

中島敦と言えば、だいたいの人が高校二年生のときに読む「山月記」でその名を知ることになりますよね。それで、その難読漢字の多さと堅苦しい文章に辟易することになるのが通例なわけで、そのうえ中国古典の「人虎伝」をもとにしているということを国語の先生から示されて、「李陵」なんていう作品もあるんだってことまで習えば、「中島敦=中国古典っぽい人!」という印象が根付くわけです。が、ご覧の通り、この

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【詩的生活宣言*4】走るひとは、詩人として住まう、この大地に。

【詩的生活宣言*4】走るひとは、詩人として住まう、この大地に。

「走るひと」になること

9月24日——。
前日の夜、発売前に手に入れた「PLANETS10」の雑誌内雑誌「走るひと」の記事を読んでいると、無性に街を走りだしたくなって、明日は朝からどこかに走りに行こうと決めていました。「意外と走れる渋谷マップ」というページもあって、走ってみたら楽しいかもとか思いつつも、朝、目が覚めてみると、割合調子はいいのだけれど、渋谷まで走りに行ったところで、荷物を置く場所が

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【詩的生活宣言*3】詩を、つくる教室。

【詩的生活宣言*3】詩を、つくる教室。

「詩集をつくらないと」と思い立ったのは、今年の三月くらいでした。

転職をずっと考えていたところなのですが、結局、自分が何をするにせよ、自分がいったい何者であるのか、どんなことができる人間なのかを示す名刺になるものがほしかったのです。

僕は、詩は何か別のものとの親和性がとても高いものだとずっと思っていました。「詩は、ファッションである」で主張したように、そもそも詩的な何かというのは、何にでも宿っ

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即興詩 | だれもわたしをしらないところ | 20210714 | #フラグメント やがて日記、そして詩。05

即興詩 | だれもわたしをしらないところ | 20210714 | #フラグメント やがて日記、そして詩。05

だれも

わたしをしらないところにいきたい

せいぶつとしての

ほんのうとは

はんたいのことばが

あなたのくちからつむがれる

だれも

あなたをしらないところは

わたしにもいけないところだと

いったところで

だれも

しんかのなかできずきあげた

りせいとも

きょうきとも

いえない

いたみのなかで

かおをしかめている

いきたい

というほんのうが

ここまでわたしたちを

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〈わたし〉をほろぼすこと | 20210712 | #フラグメント やがて日記、そして詩。03

〈わたし〉をほろぼすこと | 20210712 | #フラグメント やがて日記、そして詩。03

蝉が遠くで鳴いている。まだ、おぼつかない。

少し熱がある。モデルナワクチンを打ってから三日目のことだ。どうしようもなくつらいということではないが、このだるさで明日からまたハードワークがはじまるかと思うとかなり憂鬱になる。

仕事に人生の大半をとられてしまうということ。それがまた、自分自身への糧になることのない、ただ時間と体力と気力ばかりが奪われる仕事を続けていくこと。いったいこれが、なんになると

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「日記」の誘惑 | 20210710 | #フラグメント  やがて日記、そして詩。01

「日記」の誘惑 | 20210710 | #フラグメント やがて日記、そして詩。01

なぜ、「日記」に惹かれるのか?

紀貫之が「土佐日記」を書いてからというもの、『蜻蛉日記』や『更級日記』といった王朝女流日記が栄え、近代においても自然主義的な〈私〉性を高める装置としての「日記」が書かれ続け、そして、いまではそれらが「読まれ」続けている。

さらに、現代においては誰もが嬉々として「日記」をさらけだしている現状を、どのように受け取ればよいのか。そして、ほかならぬ、僕自身が、「日記」を

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