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身体がアートマンであるという誤解は根強いんだろうなー?!シャンカラ「ウパデーシャ・サーハスリー」

身体がアートマンであるという誤解は根強いんだろうなー?!シャンカラ「ウパデーシャ・サーハスリー」

ボクは、本稿の下書きを書いている時点で、「ウパデーシャ・サーハスリー」を今第4章まで読んだけれども、「身体がアートマン」(アートマンとは、わかりやすく言えば、本当の自分(=真我)、みたいなもの)であるという誤解は、意外とこの記事を読んでいるアナタにもあって、根強いのではないか?と思った。

オレらは、結構スンナリと「身体がアートマン」じゃないと理解したけど、そういう人って珍しいみたいだね。

ボクが読んだ4章まででも、以下の記述がある。

 人々は、生来、身体に包まれたアートマンを身体などと区別のないものであると理解している。この理解は無明(むみょう)(=無知)に由来している。(中略)

第1章16節

 身体がアートマンであるという観念を否定するアートマンの知識をもち、その知識が身体はアートマンであるという〔一般の人々が持っている〕観念とおなじほどに〔強固な〕人は、望まなくても解脱する。

第4章5節

ここまで書いてるんだから、8世紀前半のシャンカラさんの活躍した頃でも、「身体がアートマン」であるという誤解は、根強かったんだろうね。

この「身体がアートマン」って誤解が強いのは、今でも言えることだよね?

うん。たぶんそう。今でも言えることだと思う。ボクが知人たちと身体とアートマンの関係について、語り合ったとき、理解されなかったことが多かったから。

それにしても、第4章5節は強烈だ!

それにしても、上で挙げた第4章5節は強烈だ!もう一度引用しなおそう。

 身体がアートマンであるという観念を否定するアートマンの知識をもち、その知識が身体はアートマンであるという〔一般の人々が持っている〕観念とおなじほどに〔強固な〕人は、望まなくても解脱する。

第4章5節

それだけで、解脱しちゃうの?って感じ。ビックリした!!

そうだね。本来、解脱ってそんなに簡単じゃないのに、そこまで強調するほど、「身体がアートマン」という、ミンナの誤解は根強いんだなーって思ったよ。この記事を読んでいるアナタも、「身体がアートマン」という誤解に陥ってない?

身体とアートマンは別のもの!

とにかく、確認しておきたいのが、「身体とアートマンは別のもの」という真理だ。

シャンカラさんのアドヴァイタ・ヴェーダンタ(=不二一元論(ふにいちげんろん)=非二元・ノンデュアリティのウパニシャッド思想)だけでなく、その前身となった二元論のサーンキヤ哲学でも、似たような論法が使われていたよね?

だから、まずは、「身体がアートマン」だと誤解しているアナタは、サーンキヤ哲学から、復習して理解してみてはいかが?関連過去記事は以下!⇩(記事紹介の下に続きの文章あり。)

とりあえず、「見る者」=プルシャ、心や身体や五感等は「見られるもの」=プラクリティだというのがポイントだよね。(プルシャとプラクリティの二元論。)

そう考える実益としては、たとえば、「ブス」とか言われても、「お前の心はサイテーだ」とか言われても、身体や心は「見られるもの」=プラクリティで、本当の私はプルシャで観賞者である、つまり「見る者」であると思えば、本当の私がケナされたわけではない、と思えて、深刻にならずに済む、ということが挙げられるよね。

とりあえず、「身体がアートマン」という誤解が解けないアナタは、シャンカラさんの不二一元論に入る前に、まずは、二元論のサーンキヤ哲学の枠組みから、ゆっくりと理解していけばいいんじゃないか?と思うよ。

⇧上のリンクを使えば、めんどうくさい検索なし!活用しては?
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シャンカラさんが入門者向けに、悟りへの道を説いたものらしい。

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