angelspace
原初舞踏、舞踏、バリ舞踏など、身体表現、
星、占星術関連
夢を見た時の記録と考察
月欠損についてという事も含めて、あれこれ書くことが多くなったので、マガジン増設しました。
お面を舞台の上で外すということは、昔からいつかやりたいと思っていたことの一つでした。 それを今回の踊りの中で実際にやってみたわけですが、それは思っていた以上に意味のあることだったと思います。 お面を外すことで、世界は全く変わります。物理的にも、お面をつけて踊るということは、なかなか大変なところがあるのですが、これはあまり知られていないことかもしれません。 まず何よりもお面をつけるとほとんど見えません。明かりの具合によっては全てがホワイトアウトになったり、ブラックアウトに
昨日は原初舞踏の定例稽古でした。このところ、稽古の濃度が濃くて、深くて、昨日は、もうこれで死んでもいいと思えるくらいに魂が震える経験になりました。 身体の持つ可能性は、それが宇宙の始まりでありつつ、終わりでもあるからなんだということを感じながら花になりました。それだけで素晴らしい舞台になりうる空間だったと思います。 最上さんから「形に餌をつけた罠」という、まるで呪術師が弟子にするような説明を聞いたあと、簡単な振り付けをして、それを繰り返すうちに、どんどんと内在が誘き出され
とてもおもしろい動画でした。 サルトルの「嘔吐」は全編通してちゃんと読んだことがないのですが、22歳の時に読んだコリン・ウィルソンの「アウトサイダー」の中に、一つの章を使って「嘔吐」について紹介された論考があり、その文章がとても印象的だったので記憶に残っているのです。 「嘔吐」の主人公のロカンタンに近い衝動のようなものを、まるでデジャヴのように、僕自身が感じていたこともあって、今でも時々思い出していたのですが、この解説動画を聞きながら、それが実際どう言う意味だったのか、な
昨日「ようやく踊りたいと言えるようになったのかもしれない」とnoteに書きましたが、今日になって「踊りたい」だけでは足りないということにあらためて思い至り、そのことを考えていました。 今まで生きてきた中で、たくさん踊りたいから踊るということはしてきたわけですが、ただ踊りたいから踊るで踊るならば、やがて行き詰まるということです。 そういう意味では、なぜこんないい齢になってから、あらためて原初舞踏の稽古に通うようになったのかということをちゃんと腹に落とさないといけないというこ
こちらの動画を見て、湧き上がってきた言葉をまとめました。 ここまで明確ではなかったですが、この動画で書かれていることにけっこう近いことを僕も高校生くらいの頃から経験していて、その当時は特に知識もなかったので、なんだこれはと思いながら、そこで見えるものがとても美しかったし興味を惹かれたので、それを楽しんでいました。 ところが21歳の時、インドのバラナシでちょっと半端ない体験をしてしまって、それからどう落とし前をつけるのかと彷徨っていた時にバリの踊りに出くわしたのでした。
昨日の稽古、最後に行われた仮面の受け渡しの儀式が、あまりに尊くて、突き抜けていて鮮烈だった。何重にも生命が重なり合って、織り込まれて、やがて完結し、最後に丁寧にお辞儀をした時には、何かとても大事な意味のある宇宙的秘技が成就した瞬間だったような感覚が押し寄せてきてしばらく震えが止まらなかった。 前任者から仮面を受け取り、ゆっくりと回転させていくと、やがて仮面の裏側に向き合う。そこに宇宙に通じるポータルがあり、そこに顔を入れれば、もう二度と元には戻れないということを直観して戦慄
昨日の般若心経に関するFacebookの投稿にいただいたコメントから、般若心経が釈迦の言ったことを否定しているという言説があるということを知り、そのあたりのことについて考え、自分なりに整理してみた。 まずは前提としての語彙を整理しておく。 ーーーーーーーーーーーー 釈迦は「初転法輪」において「中道」「四諦」「八正道」について説法した。「初転法輪」とは釈迦の最初の説法。 … 「中道」 快楽と苦行の二極化をやめて、ちょうど良い頃加減の道を行こう。楽器の弦の張り方の喩え。強
今朝のポストで最上さんがヘルダーリンという作家に言及されていました。 そのヘルダーリンという人のことはほとんど知らなかったのですが、とても気になったので調べていたら「松岡正剛の千夜千冊」の文章に行き当たりました。 2007年に亡くなった山口小夜子さんに向けて、ヘルダーリンを引用して書かれたもので、それを読むことでヘルダーリンと言う人がどう言う人だったのか伝わってきたものがありました。 この中で晩年にアルプスの山の見える土地に移り住み、そこからギリシャ悲劇を書き続けたとあ
昨日は大きな木が何本もある公園で外稽古だった。大きな桜の木と向き合うと、幹が二つに分かれていて、それぞれの幹から出る枝が、段々と折れ線グラフのようにジグザグに伸びている。枝が曲がっているところは過去に何かあったところで、曲がるたびに何らかの衝撃があったのだと伝わってきた。 枝を辿っていくと身体が疼き、枝と同じように身体が捩れそうになるのを感じながら、少しずつ木に近づく。幹のところまでくると、木肌に鱗状の木の皮がブロックのようになっている。よく見るとその中に枝にならなかった痕
この小林秀雄、岡潔の「人間の建設」の解説動画、とても良かったです。何度も反芻したい内容。本も読んでみたいと思いました。 「もの」とじっくり「かむかふ」ことで、ほんとうの個性は醸されて現れてくるのかも知れません。それを待つことができるかどうか、それを問われているように思いました。 「強いられたもの、我慢の末に滲んでくるものが個性だ」という言葉が響いてきます。 思えば、原初舞踏の稽古で、手を封印したり、動きを固定したり、なるべく筋肉を使わないで動こうとすることで、より濃度が
こちらの動画を見ました。3時間超と長いですが、とても実のある話が聞けました。そして最後には身体性こそが鍵であるというところに行き着いた感じです。 先日、Amazonプライムで三島由紀夫と全共闘の東大での対話の、映画を見ましたが、その中で感じた違和感が何だったのか、この動画の中の議論を通してはっきりとわかってきました。 「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」 https://watch.amazon.co.jp/detail?gti=amzn1.dv.gti.16bb
先日来、肉体を喪失した三島由紀夫、2階から降りられなくなった芥川龍之介などなど、あれやこれやと考えてきました。 最初はこれ。 幼少期に内的自己をうまく育めなかった人は、生きるために外的自己を肥大化させ、ペルソナをつけることで、なんとか生き延びようとします。そうして肉体を喪失した人となり、自分が何者であるのかを見失うことになるわけです。 まさに三島由紀夫の「仮面の告白」であり、太宰治の「人間失格」ですね。三島が自分でも肉体がないことを課題として、ボディービルや武道などをし
今日も浜崎洋介さんと茂木誠さんの話から。 2階から降りられずに、「人生は一行のボードレーヌにも如かず」と呟き、やがて自決した芥川龍之介。 1階(内的自己)と2階(外的自己)を繋ぐ梯子を見つけられないという意味では、三島由紀夫や太宰治も同じなのかも知れない。それはある意味、すべての現代人が持ちうる普遍的課題と言えるだろう。 1階と2階を繋ぐための方法論として心理学的な構造を理解することも必要だろうと思う。 しかし、少し飛躍するけれど、この梯子という役割を担うためにこの世
茂木誠さんと浜崎洋介さんが、三島由紀夫について話しておられるのを聞きました。 内的自己がじゅうぶん発達する前に、先に外的自己を発達させ、記号や言葉が入り込んでしまったのが三島由紀夫という人であったから、彼は肉体を喪失したままに、ずっとそれを探していたということなんですね。 いわゆる他者先手による自我形成というものが、どのような弊害、葛藤を生むのかということを彼の生き様から学ぶことができるのかなと思います。 同じく肉体に向き合うならば、外からの肉体ではなく、内側から身体空
いろんな人の感想を読みながら、断片的な記憶をつなげながら、公演終了後の、ただただ興奮していた状態から、だんだんと脱し始めているような気がする。 さっき、こちらの河城さんのポストを読んで、突然にすべてを忘却している自分、自分が何者なのか全くわかっていない自分ということに気がついて、愕然とした。 思えば、「舞の発生」とは人間が自らの出自を問うようなことであって、しかもそれを観念でどうこうというのではなく、身体を通して、微かな手がかりを求めて、実験を積み重ねていった結果、ようや
今日も川瀬統心さんの動画を見ながら考えたことを書きます。 落下することと、自己言及の無限後退には似た響きがある。 落ちていくことが怖いのは、どこにも安全に着地できないのではないかという事もある。しかし最も怖いのは、このまま永遠に落ち続けることになるかも知れないということかも知れない。 背後から自分を見るということは、実は前から見ていることであり、それはもともと自分がいたのは前であったことの発見につながる。自分の主体の居場所は、実は前だったということだ。 このような視点