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サルトルの「嘔吐」から「存在の差異」と「所作」について考えてみた

サルトルの「嘔吐」から「存在の差異」と「所作」について考えてみた

とてもおもしろい動画でした。

サルトルの「嘔吐」は全編通してちゃんと読んだことがないのですが、22歳の時に読んだコリン・ウィルソンの「アウトサイダー」の中に、一つの章を使って「嘔吐」について紹介された論考があり、その文章がとても印象的だったので記憶に残っているのです。

「嘔吐」の主人公のロカンタンに近い衝動のようなものを、まるでデジャヴのように、僕自身が感じていたこともあって、今でも時々思い出

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仮面の裏側

仮面の裏側

昨日の稽古、最後に行われた仮面の受け渡しの儀式が、あまりに尊くて、突き抜けていて鮮烈だった。何重にも生命が重なり合って、織り込まれて、やがて完結し、最後に丁寧にお辞儀をした時には、何かとても大事な意味のある宇宙的秘技が成就した瞬間だったような感覚が押し寄せてきてしばらく震えが止まらなかった。

前任者から仮面を受け取り、ゆっくりと回転させていくと、やがて仮面の裏側に向き合う。そこに宇宙に通じるポー

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「無」の解釈

「無」の解釈

昨日の般若心経に関するFacebookの投稿にいただいたコメントから、般若心経が釈迦の言ったことを否定しているという言説があるということを知り、そのあたりのことについて考え、自分なりに整理してみた。

まずは前提としての語彙を整理しておく。

ーーーーーーーーーーーー

釈迦は「初転法輪」において「中道」「四諦」「八正道」について説法した。「初転法輪」とは釈迦の最初の説法。


「中道」
快楽と

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ヘルダーリンとアポロンとオブスクラ

ヘルダーリンとアポロンとオブスクラ

今朝のポストで最上さんがヘルダーリンという作家に言及されていました。

そのヘルダーリンという人のことはほとんど知らなかったのですが、とても気になったので調べていたら「松岡正剛の千夜千冊」の文章に行き当たりました。

2007年に亡くなった山口小夜子さんに向けて、ヘルダーリンを引用して書かれたもので、それを読むことでヘルダーリンと言う人がどう言う人だったのか伝わってきたものがありました。

この中

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外稽古、大きな桜の木

外稽古、大きな桜の木

昨日は大きな木が何本もある公園で外稽古だった。大きな桜の木と向き合うと、幹が二つに分かれていて、それぞれの幹から出る枝が、段々と折れ線グラフのようにジグザグに伸びている。枝が曲がっているところは過去に何かあったところで、曲がるたびに何らかの衝撃があったのだと伝わってきた。

枝を辿っていくと身体が疼き、枝と同じように身体が捩れそうになるのを感じながら、少しずつ木に近づく。幹のところまでくると、木肌

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「もののあはれ」を「かむかふ」

「もののあはれ」を「かむかふ」

この小林秀雄、岡潔の「人間の建設」の解説動画、とても良かったです。何度も反芻したい内容。本も読んでみたいと思いました。

「もの」とじっくり「かむかふ」ことで、ほんとうの個性は醸されて現れてくるのかも知れません。それを待つことができるかどうか、それを問われているように思いました。

「強いられたもの、我慢の末に滲んでくるものが個性だ」という言葉が響いてきます。

思えば、原初舞踏の稽古で、手を封印

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「三島由紀夫vs全共闘」から、あらためて身体性を考える

「三島由紀夫vs全共闘」から、あらためて身体性を考える

こちらの動画を見ました。3時間超と長いですが、とても実のある話が聞けました。そして最後には身体性こそが鍵であるというところに行き着いた感じです。

先日、Amazonプライムで三島由紀夫と全共闘の東大での対話の、映画を見ましたが、その中で感じた違和感が何だったのか、この動画の中の議論を通してはっきりとわかってきました。

「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」
https://watch.a

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肉体喪失から「身体」へと至る道筋

肉体喪失から「身体」へと至る道筋

先日来、肉体を喪失した三島由紀夫、2階から降りられなくなった芥川龍之介などなど、あれやこれやと考えてきました。

最初はこれ。

幼少期に内的自己をうまく育めなかった人は、生きるために外的自己を肥大化させ、ペルソナをつけることで、なんとか生き延びようとします。そうして肉体を喪失した人となり、自分が何者であるのかを見失うことになるわけです。

まさに三島由紀夫の「仮面の告白」であり、太宰治の「人間失

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クラインの壺のような梯子

クラインの壺のような梯子

今日も浜崎洋介さんと茂木誠さんの話から。

2階から降りられずに、「人生は一行のボードレーヌにも如かず」と呟き、やがて自決した芥川龍之介。

1階(内的自己)と2階(外的自己)を繋ぐ梯子を見つけられないという意味では、三島由紀夫や太宰治も同じなのかも知れない。それはある意味、すべての現代人が持ちうる普遍的課題と言えるだろう。

1階と2階を繋ぐための方法論として心理学的な構造を理解することも必要だ

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三島由紀夫の肉体喪失

三島由紀夫の肉体喪失

茂木誠さんと浜崎洋介さんが、三島由紀夫について話しておられるのを聞きました。

内的自己がじゅうぶん発達する前に、先に外的自己を発達させ、記号や言葉が入り込んでしまったのが三島由紀夫という人であったから、彼は肉体を喪失したままに、ずっとそれを探していたということなんですね。

いわゆる他者先手による自我形成というものが、どのような弊害、葛藤を生むのかということを彼の生き様から学ぶことができるのかな

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「オブスクラ 舞の発生」から少し時間をおいて

「オブスクラ 舞の発生」から少し時間をおいて

いろんな人の感想を読みながら、断片的な記憶をつなげながら、公演終了後の、ただただ興奮していた状態から、だんだんと脱し始めているような気がする。

さっき、こちらの河城さんのポストを読んで、突然にすべてを忘却している自分、自分が何者なのか全くわかっていない自分ということに気がついて、愕然とした。

思えば、「舞の発生」とは人間が自らの出自を問うようなことであって、しかもそれを観念でどうこうというので

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落下と無限後退

落下と無限後退

今日も川瀬統心さんの動画を見ながら考えたことを書きます。

落下することと、自己言及の無限後退には似た響きがある。

落ちていくことが怖いのは、どこにも安全に着地できないのではないかという事もある。しかし最も怖いのは、このまま永遠に落ち続けることになるかも知れないということかも知れない。

背後から自分を見るということは、実は前から見ていることであり、それはもともと自分がいたのは前であったことの発

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私たちはみな、哀しみの戦士たち

私たちはみな、哀しみの戦士たち

YouTubeを見ていたら、表示されたこちらの動画。前にも見たことのある、川瀬統心さんの切り抜き動画でした。

家系図の書き方には二種類あります。ひとつは先祖から始まり、たくさんの子孫が増えていくという、枝分かれ式の裾広がりの家系図であり、これがいわゆる普通の家系図です。

それに対して、もうひとつの家系図は自分から父母、祖父母と、過去に遡るほどに関わる人が多くなっていくというもので、これを逆家系

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最上和子さんの舞踏公演「オブスクラ 舞の発生」を見て

最上和子さんの舞踏公演「オブスクラ 舞の発生」を見て

昨日の最上さんの舞踏を反芻しながら今日は過ごしていました。本当に衝撃的と言っても過言ではない舞台でした。

後半現れた「別のもの」はまさに稀人であり、それは何万年もの間忘れ去られたように見えて、実は密かに凝縮し、熟成し、老成していった、ある種の化身とでもいうような存在でした。

それが立ち現れたのは、真っ暗だった舞台の窓が開かれ、そこから差し込む太陽の光と、今この瞬間の空気と雑踏の音が入り込んでき

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