「無」の解釈
昨日の般若心経に関するFacebookの投稿にいただいたコメントから、般若心経が釈迦の言ったことを否定しているという言説があるということを知り、そのあたりのことについて考え、自分なりに整理してみた。
まずは前提としての語彙を整理しておく。
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釈迦は「初転法輪」において「中道」「四諦」「八正道」について説法した。「初転法輪」とは釈迦の最初の説法。
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「中道」
快楽と苦行の二極化をやめて、ちょうど良い頃加減の道を行こう。楽器の弦の張り方の喩え。強く張っても切れるし、弱くても音は出ない。
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「四諦」は苦諦、集諦、滅諦、道諦
苦諦
生老病死は苦である
迷いのこの世は一切が苦であるという真実
集諦
苦には原因がある
苦の原因は煩悩、妄執、愛執であるという真実
滅諦
苦とは滅することができるという真実
無常の世を超え執着を断つことが苦しみを滅した悟りの境地である
道諦
苦しみを滅する方法とは八正道である
悟りに導く実践という真実
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「八正道」
涅槃に至るための8つの実践徳目
正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定
正見
囚われの心を捨てて物事をありのまま正しく見ること
正思
正しく考え判断すること
正語
嘘、無駄話、陰口粗暴な言葉を言わないこと
正業
殺生、盗み、性行為をしないこと
正命
道徳に反せず正当な生計を立てて生きること
正精進
善に向かって正しい努力をすること
正念
正しい目標を持つこと
正定
正しい集中力を完成させること
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問題は、般若心経の中のこの言葉、「無苦集滅道」だろう。
これは「四諦」がないと言っているわけで、ここに釈迦の教えに対する否定が含まれており、そこに矛盾があると考える人がいるということだと思う。
ここでは「無」という言葉の解釈が鍵であると考える。
「無」をこだわってはダメだに置き換えると、四諦を会得した上で、四諦の囚われから脱しなさい、と理解できる。つまり四諦さえも「空」となるということ。
それと同じく、
「無智亦無得」についても考えてみる。
「智」 仏の智慧を知ること
「得」 悟りを得ること
直訳すると、「仏の智慧を知ることも悟りを得ることもない」となり、これも釈迦の教えに対する否定という捉え方にもなりうる。
しかし、ここでも「無」をこだわってはダメだと変換すると、「仏の智慧にこだわったり、悟りを得ることへの囚われから脱しなさい。」となり、悟りさえも空となることを示している。
このあたりはまさに禅問答のようであり、こだわらずともできているというところまで行き着くと、達観の領域に至るということ。
車の運転、自転車の運転では、いちいちひとつひとつの動作に意識を向けず、当たり前に無意識でできるようになっているということと似ている。
それと同じように、八正道を日常生活の中に取り込んで繰り返すことによって、当たり前に無意識でできるようになるようにしなさいという意味。
悟りたい思いも、悟りに至った喜びも、悟ったという事実ですらも忘れてしまうくらいに当たり前となる領域までいきなさいという意味。
こだわってるうちは、意識しているうちはまだまだダメで、無意識に八正道ができているところまでいくと涅槃に入ることができるという意味ではないか。
いずれにしても、般若心経は釈迦入滅後500年を経たあたりで、誰かが創作したものであり、般若心経で書かれていることが、実際の釈迦の言葉であるかどうかはわからないということは事実としてある。
それゆえに上座部仏教(原始仏教)を実践している人からすれば、これは違う、間違えていると言いたくなる気持ちもわかる。
ある意味、大乗仏教というのは、釈迦から始まった仏教哲学をさらに後世の天才が研究して実践して発展させていったものといえるのかも知れない。
大乗には禅問答のような世界があり、ジレンマからトリレンマへの次元上昇があり、それはニ元から四値への意識の跳躍を織り込んでいったと言うことなのだろう。
所詮、科学も一神教も二元の世界観であるから、そこに矛盾があるのは当たり前で、それを解消するためには、次元を上がるしかないわけだ。
垂直軸を立てて回転させるということは、絶対矛盾的自己同一の世界観を見出すことであり、ある意味般若心経はその世界観に基づいて書かれたものと言えるではないかと、今回思い至った。