「もののあはれ」を「かむかふ」
この小林秀雄、岡潔の「人間の建設」の解説動画、とても良かったです。何度も反芻したい内容。本も読んでみたいと思いました。
「もの」とじっくり「かむかふ」ことで、ほんとうの個性は醸されて現れてくるのかも知れません。それを待つことができるかどうか、それを問われているように思いました。
「強いられたもの、我慢の末に滲んでくるものが個性だ」という言葉が響いてきます。
思えば、原初舞踏の稽古で、手を封印したり、動きを固定したり、なるべく筋肉を使わないで動こうとすることで、より濃度が濃くなり、「舞踏になる」ということとも通じることだと思います。
それを壊すものがあるとしたら、功名的な我先な衝動、焦り、なのかも知れません。それは浅薄さであり、無明ということでもあるのでしょう。
役に立ち、利益につながることのみを目指す今の時代の風潮をお二人は嘆きつつ、本当に成熟し「もの」と一つとなるための道筋について話しておられるのだと思った次第です。
そのような無明がゆえに未熟なままの個性の発露を、ある意味「もののあはれ」と言うのだとしたら「もののあはれを知る」ということは、「もの」としっかり「かむかひ」深く醸された個性に至るということであり、そのような「もの」の持つ可能性(深さ)に気づいている状態のことを言うのかも知れません。
いや、もっと言うと、むしろ無明の中にこそ、種があり、可能性があると言うことに気づきながら、その成り行きを見守り、待つことのできる姿勢のことを「もののあはれを知る」といったのかも知れないと思いました。
「あはれ」は「あ、はれ」であり、「あっぱれ」であると本居宣長が書いているのだそうで、それは無明の中に光があり、可能性があることを看破しているからこそ起こる情動のようなものと言えるかもしれません。
晴れてよく見えたもの、それを直観と呼び、それこそが最も大事なものであるということを認識するに至ることが、「もののあはれを知る」ということだとも言えるでしょう。