落下と無限後退
今日も川瀬統心さんの動画を見ながら考えたことを書きます。
落下することと、自己言及の無限後退には似た響きがある。
落ちていくことが怖いのは、どこにも安全に着地できないのではないかという事もある。しかし最も怖いのは、このまま永遠に落ち続けることになるかも知れないということかも知れない。
背後から自分を見るということは、実は前から見ていることであり、それはもともと自分がいたのは前であったことの発見につながる。自分の主体の居場所は、実は前だったということだ。
このような視点の反転的転換は垂直的であり、それこそが絶対矛盾的自己同一を可能たらしめる。
だからこそ、落下した先に、住み慣れた時空間ではない、もう一つの空間を発見するというような、舞踏の中で経験的に体感していることが、あながちただの妄想ではないということを示しているように思える。
前は背景面であり、それは同時に無限の後ろでもある。だから、後ろを意識するところから始まり、それがじゅうぶんになった時に、「われここにあり」と言える時が来る。それは落ちきったからこそ辿り着いた転換点であり、それこそが無限遠点に立つということであろう。
その「我」は他者の他者としての自我(ψ6)ではなく、無限遠点に立つ自我(ψ5)のことになる。
きっと舞踏も奇数先手であるべきなのだろう。「われ」がそこにあることを認識したところから、真の舞踏は始まるのだと思う。