「三島由紀夫vs全共闘」から、あらためて身体性を考える
こちらの動画を見ました。3時間超と長いですが、とても実のある話が聞けました。そして最後には身体性こそが鍵であるというところに行き着いた感じです。
先日、Amazonプライムで三島由紀夫と全共闘の東大での対話の、映画を見ましたが、その中で感じた違和感が何だったのか、この動画の中の議論を通してはっきりとわかってきました。
「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」
https://watch.amazon.co.jp/detail?gti=amzn1.dv.gti.16bbcaf6-6c24-09c9-6b77-72251609e723&territory=JP&ref_=share_ios_movie&r=web
特に全共闘の欺瞞と観念に逃げる姿に対して、三島が観念だけでは足りない、持続がなければ意味がないというようなことを言うところ。その分、三島の真剣さが見えて、逆に全共闘の浅さが露呈した場面でもあったなと思います。
身体性という意味では、三島はいろんな武道には取り組んだけれど、何をやってもとても不器用だったと石原慎太郎か言っていたそうです。だからボディービルのような結果の出やすいものに取り組んだとのこと。
「自分は自然の直観や予見といった自分の内的な能力を信じるようには生まれついていない、それは安全弁の欠如である」と自分でも書き残しています。
自然の直観や予見というものは、身体性、肉体性、土着性の上に現れるものであり、直観がなければ決定ができず、無限に迷うことになり、決められないというジレンマを産みます。だから敵を作らなければ今ここにあるということを感じられないのかも知れません。
身体性の喪失があるとき、観念が身体を欲するのであり、だからこそ「花が美しいのではない、美しい花があるのだ。」というような言葉が出てくるのかとも思います。三島由紀夫の身体性の喪失についてはこちらで言及しています。
やはり全ては「身体」から始まるのであり、「身体」こそが鍵なのでしょう。
小林秀雄が書いた、本居宣長の「もののあはれ」論では、先に直感があり、先に全体性の感受があったからこそ、その後の一生をかけた研究があり得たのだと指摘しています。
直感は運命であり、ああ、晴れ!と直観したからこそ、その研究は成就したわけです。
ちなみに
「考える」の語源は「かむかう」である
「か」は強調 「む」は身体
「かう」は「交う」で「まじわる」
だそうです。
ということは、身体が交わるところから考えるは始まるということであり、だからこそ身体の交わりの場をどこに担保するのかはとても重要な課題ということでしょう。
そして、あらためて身体性とは何なのか、どのように身体性を育むのか、ということに向き合っていくことは、これからの時代の最も大事な鍵とも言えることである。
ということで、今やっている原初舞踏の稽古がいかに大事なものであるのかということを、改めて思ったわけで、それでこれを書いたというわけです。