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「踊りたい」だけでは足りない

昨日「ようやく踊りたいと言えるようになったのかもしれない」とnoteに書きましたが、今日になって「踊りたい」だけでは足りないということにあらためて思い至り、そのことを考えていました。



今まで生きてきた中で、たくさん踊りたいから踊るということはしてきたわけですが、ただ踊りたいから踊るで踊るならば、やがて行き詰まるということです。

そういう意味では、なぜこんないい齢になってから、あらためて原初舞踏の稽古に通うようになったのかということをちゃんと腹に落とさないといけないということだと思い至りました。

そこで学んでいることの中で、自分に足りなかったものが何かと考えると、やはり、「思想を持つ」ということだったかもしれません。

過去にも踊る時にもいつもテーマはありましたし、それなりに意味を持っていたつもりでしたが、やはり今振り返るに、それはまだまだ独りよがりの未熟な動機によっていたということを思うわけです。

それはやはり最上和子氏という舞踏家の舞踏に向き合う姿勢に接して思ったことでもあります。

彼女の過去の読書量と思考の履歴、生き様、そして稽古の時に湧いて出てくる直観的発想の見事さというものを見て、その言葉は自身の経験に裏打ちされた思想から出てくるものであり、その上で踊りに取り組んでいるということであり、それだからこそ、いつも強度を担保した舞踏になり得るということなのだと思った次第です。

そういうことを鑑みるに、たぶん、僕は軽すぎて、ただ浅瀬でチャプチャプしていたのかもしれません。しかしそれゆえに壁に当たって、一度踊りから離れたわけですから、それはある意味順当なプロセスとも言えるでしょう。

それゆえに簡単に「踊りたい」などと言ってはいけないと思っていたところがあり、そのように言うことを無意識のうちに自制していたということもあったのだと思います。

そういうことを踏まえての昨日の「ようやく踊りたいと言えるようになったのかもしれない」という言葉が出てきたのかなと思いました。

たぶん、まだじゅうぶんではなく、足りないところがたくさんあるような気がします。しかし、今の自分に何ができるのか、この2年ほどの間の経験で得たことから、何が変わったのか、そのあたりを見てみたいという気持ちが湧いてきたという感じでしょうか。

そういう意味では、来年早々の新年会という場は自分にとってとても大事な舞台であるということを、あらためて再確認した次第です。さて、また粛々と一人稽古しようと思います。

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