クラインの壺のような梯子
今日も浜崎洋介さんと茂木誠さんの話から。
2階から降りられずに、「人生は一行のボードレーヌにも如かず」と呟き、やがて自決した芥川龍之介。
1階(内的自己)と2階(外的自己)を繋ぐ梯子を見つけられないという意味では、三島由紀夫や太宰治も同じなのかも知れない。それはある意味、すべての現代人が持ちうる普遍的課題と言えるだろう。
1階と2階を繋ぐための方法論として心理学的な構造を理解することも必要だろうと思う。
しかし、少し飛躍するけれど、この梯子という役割を担うためにこの世に姿を現した切り札的存在がヌーソロジーだと言えるような気もする。ただの直線的な梯子だけではどうしても無理なので、クラインの壺のような四次元的道筋を通る梯子が必要だったというわけだ。
人間が2階に登るのは本能であり必然だ。1階が整ってから2階に登るべきと、口で言うのは簡単だけど、実際にはそんな単純なことではないだろう。人間は二重構造でできていて、内部と外部を行き来しながら、葛藤しながら成長していくものであり、そして人はどうしても高いところに登りたがるものだ。(たぶん)
階層構造があることを知り、その構造の意味を理解することは大事だと思う。この宇宙はフラクタル的に作られているが故に、梯子の登り降りを学ぶことはあらゆる場面で必要になるだろう。
そして、その梯子を、実際に登ったり降りたりしているのが原初舞踏の試みということもできるのではないだろうか。
ようやく、具体的な道筋を提示するものが出てきたというのが、今の時代ということかも知れない。まさに変換人として何が必要か、どのように次元を繋ぐ存在となるのか、それを学び、方法を構築することが、ここ数千年の人類の目的だったのかも知れない。