サルトルの「嘔吐」から「存在の差異」と「所作」について考えてみた
とてもおもしろい動画でした。
サルトルの「嘔吐」は全編通してちゃんと読んだことがないのですが、22歳の時に読んだコリン・ウィルソンの「アウトサイダー」の中に、一つの章を使って「嘔吐」について紹介された論考があり、その文章がとても印象的だったので記憶に残っているのです。
「嘔吐」の主人公のロカンタンに近い衝動のようなものを、まるでデジャヴのように、僕自身が感じていたこともあって、今でも時々思い出していたのですが、この解説動画を聞きながら、それが実際どう言う意味だったのか、なぜ心に残ったのか、はっきりとわかりました。
ロカンタンは「存在」を感じてしまった時に嘔吐感を覚えるのですが、僕の感覚から言えば、それは差異を見てしまうと言うことだったのだと思います。その時の違和感に対して、まだ耐性のなかった時代がロカンタンの生きた1930年代であり、ある意味時代を先取りした感性をサルトルは表現していたのだろうと言うことです。
物の存在に差異を見るというのは、当時サルトルが現象学を学んでいたと言うことと関係があるのでしょう。
物の中に存在を見てしまう時、物の、「見えない裏性」を見てしまう時、それはある種の垂直性の気づきとも言えるわけですが、それがどうにも言葉にできないロカンタンには、身体的に嘔吐と言う形で現れたと言うことなのでしょう。
それに付随してはたと気づいたのは、原初舞踏の最上和子氏がその舞踏の始まりとして、「所作」にこだわるということを何度も言われていることとも似ているのではないかと言うことです。
たしかに「所作」に対してこだわって、稽古に取り組んでみると、そこには延々と繰り返されてきた生命の重なりと言うものが見えてきて、ある種の霊が降り立つのが見えてくると言うのが、僕の経験ですが、そのようなことに慣れていない人であれば、おそらくロカンタンのように嘔吐感や、ある種の恐怖感に襲われるかもしれません。もしくは何も感じない人の方が多いのかもしれませんが。
そこには次元を超えた垂直の重なりがあり、人によっては、それを「もの」の中に見てしまうと言うようなことがあるのだと思います。これは今の科学ではまだじゅうぶん説明されていないレベルのことだと思います。しかし、それでもそれを敏感な人は感知するし、そこにこそ生命の意味を感じると言うことなのでしょう。
その物の存在の差異を表現するものが、きっと芸術というものの本来の役割だと思いますが、その芸術の霊性が忘れられて、即物的な側面だけが評価されるのが今の娯楽的エンターテイメントとしての踊りや商業的な絵画なのかもしれません。
もし、本物とは何かと考えるならば、その差異性を浮き上がらせ、人間の意識そのものの次元を上げて、変えてしまうような「質」を伴ったものと言うことになるのだろうと思います。
僕自身、当時はまだはっきりと理解していなかったとしても、21〜22歳の時に直観したことを、ずっと追い続けて今に至り、その一つの解としてのヌーソロジーに響き、その一つの衝動として原初舞踏の扉を叩いたのだと言うことを、あらためて理解したと言うことを確認した次第です。