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福田恆存を読む

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『福田恆存全集』全八巻(文藝春秋社)を熟読して、私注を記録していきます。
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D. H. ロレンス『黙示録論ー現代人は愛しうるか』①

D. H. ロレンス『黙示録論ー現代人は愛しうるか』①

  D. H. ロレンスの『黙示録論』(原題:Apocalypse)は一九三〇年に出版された。それを福田恆存は昭和十六年(一九四一年)に訳し、太平洋戦争終結後に出版した。

この本が福田にとって、また福田の思想を学ぶうえで如何に重要な書物であるかは、下記の福田の一文を読めば足りるだろう。

無論、私にはこの本のまとまった解説などは到底できない。読んでいく中で印象に残った文章を軸としながら、この本を

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【閑話】直観の系譜

【閑話】直観の系譜

 私は、実生活から出発し足を地に着けてものごとを考えるという態度を、シェイクスピア、福田恆存、ゲーテ、そして小林秀雄等から学んだ。

彼らの書いたものを読む以前の私は、何か曖昧な観念によってものを考えがちな、いやむしろそれらの観念に振り回されているような人間だった。大学時代、文学部に所属し、古今東西の古典文学に惹きつけられるものを感じていた私であったが、その理由は、心の中でおぼろげに求めていたもの

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【閑話】空間芸術としての批評

【閑話】空間芸術としての批評

 福田は空間的な文学の創造を目指していた。何かの座談会でそのようなことを言っていたのを読んだ記憶があるし、初期の福田の文章には「造型」という言葉がしばしば出てくる。

実際に福田の文章を読んでいると、文章構成の巧みさに感心する。福田は原稿用紙に手書きで書いていたに違いないが、一つの文章を書き上げていく過程が一体どのようなものであったのか、願わくば私は、その様子を覗いてみたい。

一気呵成に書き上げ

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『理解といふこと』『告白といふこと』『自己劇化と告白』謎に耐えるとは、可能性への信仰である

『理解といふこと』『告白といふこと』『自己劇化と告白』謎に耐えるとは、可能性への信仰である

『理解といふこと』『告白といふこと』『自己劇化と告白』(『福田恆存全集』第二巻 収録)はいずれも昭和二十七年に発表された。

これらの文章は、一貫して、一つのことを主張しているように私には思える。それは「謎」に耐えることの重要性である。

「謎」とは何か。同じことが、『理解といふこと』の中では、「理解しえぬ部分」や「誤解」という言葉で表現されており、『告白といふこと』『自己劇化と告白』の中では、「

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『批評精神について』批評とは極北の精神にほかならない

『批評精神について』批評とは極北の精神にほかならない

 この論文は昭和二十四年に発表された。

このように前置きして、福田は、平面上に置かれた物体について語り始める。平面はつねに動いている。少しの傾斜でもすべり始める物体もあれば、多少の傾斜では微動だにしない物体もある。ここでの平面と物体は、それぞれ現実と精神の比喩である。

他の精神の眼には傾斜とは見えないような微細な傾斜を—— またその予兆すらを—— 真っ先に鋭敏に感知する眼こそが、すぐれた批評精

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【閑話】全集を読むこと

【閑話】全集を読むこと

 作家の全集を読むことは、大変時間もかかるし、骨も折れることだ。そのあいだは他の本を読めなくなるほどに精力を使う。ではなぜそうまでして、全集を読むのか。

それは歴史の衝突のためである。結果としての充ちた時間のためである。

全集の熟読は歴史の衝突だ。作者の歴史と私の歴史との衝突である。それゆえに、対話は濃密なものとなり、相手が腹を割ってくれただけ、こちらも腹を割って応える必要がある。その繰り返し

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『職業としての批評家』他人の書いたものを読むといふのは、なみなみならぬ奉仕ではないか

『職業としての批評家』他人の書いたものを読むといふのは、なみなみならぬ奉仕ではないか

 この論文は昭和二十三年に発表された。冒頭の引用から始める。

福田が『職業としての作家』において提出した「近代人の宿命」とはなにか。一言で言うならば、人間的完成と職業との分離である。個人的自我と集団的自我との分離と言い換えてもよいだろう。要するに、近代以降、作家を職業とするためには、①専門化された技術を持つ職人になるか、②副業を持つか、このいずれかの道しかないということである。

ひとは他人の人

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【閑話】福田恆存が考えてきた問い

【閑話】福田恆存が考えてきた問い

 何を疑問と感じるかでその人がどういう人間かが分かる、と言ったら言い過ぎだろうか。とにかく、発する問いにはその人の本質が現れているように思う。答えは粉飾できる。だが問いには、精神の姿態がそのままの形で現れているように思うのである。

・はたして理解は美徳であるか(『理解といふこと』)
・散文を書くとはどういう営みか(『批評家と作家との乖離について』)
・自己を描くとはどういうことか(『私小説のため

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【閑話】私の熟読の型のようなもの

【閑話】私の熟読の型のようなもの

<1>. 通読
・全体の第一印象を得る
・著者の気分をつかむ(気合を入れて書いているか、気楽に書いているか等)
・自分の受け取った印象を心に留めておく

<2>. 再読
・(論理)構造に注意しながら読む
・引っかかる文章すべてに線を引く

<3>. 再々読
・論文の核を探す
・核と著書の気分の関係を考える
・核とそのほかの文章の関係を考える

<4>. 写経
・線を引いた文章をすべて書き写す
・文

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『藝術の転落』いはば小説家とは人間完成の専門家であつた

『藝術の転落』いはば小説家とは人間完成の専門家であつた

 この論文は昭和二十三年に発表された。前年に桑原武夫が書いた『第二藝術』に関して、福田は述べる。

桑原武夫は俳句を「第二藝術」とし、「第一藝術」たる小説と対照せしめた。しかし、桑原氏の頭にある小説の概念は、十九世紀の小説に基づいたものではないだろうか。福田の感じた違和感はここにある。

もはや二十世紀において、小説は、ひいては芸術そのものは、もはや十九世紀における優位から転落し始めているのではな

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【閑話】書かれたものはすべて片言隻句

【閑話】書かれたものはすべて片言隻句

 書かれたものは全て、片言隻句である。それは氷山の、海面から出た部分である。

その下には、技術がある。文章表現の技術、構成の技術、論理の技術、等々。

またその下には、その人間の経てきたあらゆる経験がある。思索の跡がある。知識や教養の集積がある。

さらにその下には、その人間の生き方がある。朝の過ごし方があり、昼の過ごし方があり、夜の過ごし方がある。他人と接するときの心の持ちようがある。行為とし

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『急進的文学論の位置づけ』「屈服」こそはまさにはげしい闘争の逆説

『急進的文学論の位置づけ』「屈服」こそはまさにはげしい闘争の逆説

 この論文は昭和二十三年に発表された。福田は、中野重治の鷗外観に対して疑問を呈する。

中野重治は、「古いものに対する鷗外の屈服」を指摘する。彼は「徳川時代から引きつづいて来た日本の封建的なもの、明治になつて再編成された封建的専制的なもの、これを維持しようため」に奮闘した鷗外を批判する。そして「日本の民主革命のため、日本の文化革命のためには、鷗外を、古い支配勢力の思想的芸術的選手として認め」、また

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【閑話】寝るまえに阿房列車を運転する

【閑話】寝るまえに阿房列車を運転する

 ここ最近、寝る前に、内田百閒の『第一阿房列車』(新潮社)を読んでいる。町田康さんが紹介していたので手にとってみたら、面白すぎて困っている。

声に出して笑ってしまう。それも数行おきに。

内田百閒。ユーモアの塊みたいな人。言葉のセンス、間のとりかた、ものを見る角度、とぼけた発言、気取らない感じ、すべて面白い。

なにも用事のない汽車の旅、すなわち「阿房列車を運転する」ために、どこへ行こうか、いつ

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『謎の喪失』驚かうとする心のないところに謎は存在する余地をもたない

『謎の喪失』驚かうとする心のないところに謎は存在する余地をもたない

 この論文は昭和二十二年に発表された。
冒頭の引用から始める。

福田の問いは、小説における謎の喪失の理由である。

十九世紀以降、認識優位の時代になった。それと歩調を合わせて、科学が社会の中で力を増していく。力を増していくとは、人々の間で信頼を勝ち得ていったということだが、正確には、科学の可能性に人々は信頼していたのである。

たとえば、天気予報というものがある。天気予報への人々の信頼は何によっ

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