黒豆珈琲の修行時代
ゲーテに関する雑感
科学・技術と共に生きることについての思索断片。 科学は飲んでも科学に飲まれるな。
『福田恆存全集』全八巻(文藝春秋社)を熟読して、私注を記録していきます。
今回は私が日頃している四つの読書について、ご紹介したいと思います。 ①朝読書(起床後すぐの朝食の時間) 私には毎朝、コーヒーとパンを片手におおよそ十五分ぐらい本を読む習慣があります。所謂、朝読書ですが、私なりに選書の基準があります。それは、㈠両手を離しても読める製本であること、㈡比較的明瞭・論理的な文章であること、㈢ある程度分量のある本であること、というものです。 以下、一つずつ理由を説明します。 ㈠両手を離しても読める製本であること:理由は単純で、私は片手にパンとコ
「ウェルテルはなぜ死んだんですか? 失恋したからですか?」 私はそうじゃないと思います。 人間存在というものは、どこまでいってもエゴとエゴのぶつかり合いでしかないことに、うんざしたからだと考えています。 「ではなぜ作者である当のゲーテは、ウェルテルと一緒に死ななかったんですか?ゲーテは人間のエゴにうんざりしなかったんですか?」 もちろんうんざりしたでしょう。 しかし、それと同時に、彼には強い信仰心がありました。 「どのような信仰ですか?」 ゲーテという人は、 森羅万
言葉は、人間がつくりだしたものである。だが、決して意識的につくられたものではない。それは歴史の中で、必要に沿って、自然に育ち、徐々に養われ、形を変え、いつしか逆に、人間を形づくってきたものである。 『法句経(ダンマ・パダ)』という書物がある。釈尊の死後、彼の言葉を詩の形にして集成した詩華集である。 先日、ふとしたことがきっかけで、この書物を手に取ることがあった。最初のページから順に読んでいき、暫くして下の詩句に突き当たった。 私は、しばらくこの本を机の上に置き、もの想
ゲーテは「眼の人」だとよく言われる。「もの」を非常によく「見た」、という意味である。が、彼の恐るべき点は、眼の人でありながら見たものに捉われていない点にあると私は感じる。そのことが暗示する一般的な真実があるとするならば、最高度に洗練された力はその力から自由になる、ということではないか。 こう書いてみて、ふと私は、中島敦の『名人伝』を思い出した。弓矢の技を極度に窮めた名人は、遂に弓矢を持たずとも、ものを射れるようになるという話である。ものを書くということも一つの手の技だとす
頭の中に理論や予感がなければ、外界を見ても何も見えないだろう。産まれたての赤ちゃんが見ている世界を想像してみる。それはきっと、カラフルな点の集合でしかないだろう。 理論や予感とは、要するに概念である。つまり、ことばである。ことばがなければ、我々は色と形以外の何も見ることができない。 一旦はそれでいい。しかしそのあとで、一度ことばから離れて事物や現象をよく見るということが必要になってくる。 たとえば「パソコン」ということばを忘れて、パソコンを見てみる。すると目の前に異様
これは私の身に起きた実話です。ーーー テレビや新聞のニュースに載るために必要な条件は何でしょうか? それは「非日常」であることだと思います。マスコミは商売上、非日常を好みます。「平凡な日常」にはニュースバリューがないからです。 しかしそれは、出来事を表面的に見た場合にしか当てはまりません。よくよく見れば、またよくよく知れば、日常の奥には無限のドラマがあります。語られることのない多彩な感情があります。その一つの芸術的表現が文学だと思います。 ともかく、そのような「平凡
最近気がついたことがある。 歴史的に、参政権と兵役は基本的にセットだと考えられてきたということだ。「政治に参加したいのなら危機に際して戦う責任を負え」、それが一つのスタンダードな価値観として、古代から近代にかけて通底している。 もちろん、昔は政治的権力者と、富や武力の結びつきがより強く、莫大な戦費を賄えるのは必然的に政治的権力者だけだったという側面はあると思う。 また、現代の高度に機械化した戦争においては、戦争の質が昔とは根本的に違うという事実もあるだろう。そのため一
私は仕事柄、様々な県に住んできた。また旅に出ると、それぞれの土地はそれぞれの自然の雰囲気をもっていることを感じる。 たとえば、岐阜の自然は原生の緑が豊かである。愛知の自然は都会的、三重の自然は神聖な森のようであり、滋賀の自然は素朴で穏やか、京都の自然は造形的、鹿児島の自然は南国的、熊本の自然は壮大であると感じる。 もちろんここでいう自然とは、その土地土地の山や川、緑のある景色から受ける私の主観的な印象でしかない。また県の中の場所によっても雰囲気は全く異なってくるのも承知
私は、実生活から出発し足を地に着けてものごとを考えるという態度を、シェイクスピア、福田恆存、ゲーテ、そして小林秀雄等から学んだ。 彼らの書いたものを読む以前の私は、何か曖昧な観念によってものを考えがちな、いやむしろそれらの観念に振り回されているような人間だった。大学時代、文学部に所属し、古今東西の古典文学に惹きつけられるものを感じていた私であったが、その理由は、心の中でおぼろげに求めていたものの所在を古典の中にならば突き止められるのではないかという、素朴な願いからだった。
中島みゆきに『誕生』という曲がある。彼女の詩魂が滲み出ている名曲だと思う。 しかし厚かましくも、私はずっと、上記に引用した一節である「帰りたい場所がまたひとつずつ消えていく」という部分に違和感を持ってきた。 できることならば、「帰りたい場所がまたひとつずつ増えていく」としたほうが、より歌い手の哀しい感情が伝わるのではないかと感じたからだ。 「消えていく」というのは、ある意味でその通りなのだが、あまりにも客観的すぎ、それゆえに歌い手の主観的な哀しさを表現する力に、欠けて
私の嫌いなことばに「潰しが効く」ということばがある。人間を金属のように血のかよわない無機質なものとみる見方に、強烈な嫌悪感を覚える。 「人材」ということばも嫌いである。これも資本家の論理で人間社会を見たときに使用されることばだが、人間が生きることの何たるかを見失わせるに充分強力なことばである。 「汎用性のある人間」というのも嫌いなことばである。できるだけ多くの現象を説明する理論をすぐれた仮説とみなす科学の考え方を、そのまま人間に適用するような、その短絡さがそもそも嫌いで
福田は空間的な文学の創造を目指していた。何かの座談会でそのようなことを言っていたのを読んだ記憶があるし、初期の福田の文章には「造型」という言葉がしばしば出てくる。 実際に福田の文章を読んでいると、文章構成の巧みさに感心する。福田は原稿用紙に手書きで書いていたに違いないが、一つの文章を書き上げていく過程が一体どのようなものであったのか、願わくば私は、その様子を覗いてみたい。 一気呵成に書き上げていたのだろうか、それとも緻密に計算して何度も推敲していたのだろうか、想像は尽き
今朝、電子レンジの裏から火花が散った。生活が急激に不便になった。 先日ハイゼンベルクの『科学ー技術の未来 ゲーテ・自然・宇宙』を読んだ。科学・技術について考えた。 ゲーテはニュートン光学を批判し、ロマン主義も批判した。それらに共通する理由は、両者ともに、主観と客観を明確に分けられると考えている点にあると感じる。その態度が、ゲーテには本質的に気に食わなかったのだと思う。 自然科学はどこまでいっても人間の営みである。それは非常に強力・有用であるが、自然そのものではない。自
『理解といふこと』『告白といふこと』『自己劇化と告白』(『福田恆存全集』第二巻 収録)はいずれも昭和二十七年に発表された。 これらの文章は、一貫して、一つのことを主張しているように私には思える。それは「謎」に耐えることの重要性である。 「謎」とは何か。同じことが、『理解といふこと』の中では、「理解しえぬ部分」や「誤解」という言葉で表現されており、『告白といふこと』『自己劇化と告白』の中では、「悪」という言葉で表現されている。 謎に耐えきれない弱さは、生を枯渇させていく。
D. H. ロレンスの『黙示録論』(原題:Apocalypse)は一九三〇年に出版された。それを福田恆存は昭和十六年(一九四一年)に訳し、太平洋戦争終結後に出版した。 この本が福田にとって、また福田の思想を学ぶうえで如何に重要な書物であるかは、下記の福田の一文を読めば足りるだろう。 無論、私にはこの本のまとまった解説などは到底できない。読んでいく中で印象に残った文章を軸としながら、この本を読み進めていくだけである。 早速、読んでいこう。 冒頭、ロレンスは読書や書物
この論文は昭和二十四年に発表された。 このように前置きして、福田は、平面上に置かれた物体について語り始める。平面はつねに動いている。少しの傾斜でもすべり始める物体もあれば、多少の傾斜では微動だにしない物体もある。ここでの平面と物体は、それぞれ現実と精神の比喩である。 他の精神の眼には傾斜とは見えないような微細な傾斜を—— またその予兆すらを—— 真っ先に鋭敏に感知する眼こそが、すぐれた批評精神というものである。 そのうえでこの批評精神にはある特徴がある。それは、もし現