持つべきものは好敵手
今回は、最強の探検家かつ収集家、アルフレッド・ウォレスについて。
以下、過去回より。
この回はダーウィンとマルクスを軸にして書いたため、構成的にどうしても、ウォレスをこの程度しか紹介できなかったのだが。
彼の研究のみならず人生も、大変素晴らしいものだった。知らない人は、ぜひ、ウォレスのことを知ってほしい。
飽きずに読み続けられるよう、工夫して書いてみる。
ウェールズのウスクの、中流家庭に生まれた。兄弟姉妹は9人(本人含む)もいた。
家計は苦しく、ウォレスは13才で学校をやめざるをえなくなった。学校教育というものを経験できたのは、人生で6年間だけだった。
しかし。家にあった書籍や家族とした園芸活動を、学ぶ楽しみの永続的な源として覚えている、とウォレスは述べている。
ちなみに。両親に連れられて礼拝にも出席していたが、組織化された宗教に対しては熱意をもてなかった、とも明かしている。
上の兄弟の事業を手伝うことに。測量士として働いた。
その後、測量や地図製作を教える教師になった。そこで「ベイツ擬態」で有名なベイツと出会った。
ベイツ擬態に関しては、この回で詳しく書いた。
この出逢いがウォレスの人生を大きく変えた。ウォレスが学校をやめて働き出していなかったら、なかったであろう出来事がだ。
2人は、昆虫の話などを通して意気投合。
ダーウィンの『ビーグル号航海記』などに触発され(2人ともダーウィンのファンだった)、一緒に標本採取の旅に出ることを決意。
モネの少年期を彷彿とさせるものがあるな。
ブラジルで、ベイツは11年間・ウォレスは4年間、収集に没頭した。
ウォレスは、ネグロ川(ブラジル北部を流れるアマゾン川支流の河川)の上流域に焦点をあてた。ヨーロッパの人々にとって、これは未踏のエリアだった。
黒い川という名前の通り、水の色は黒褐色をしている。ブラック・ウォーターだ。魚の種類は少なめだが、ユニークな魚が多い。
鳥・甲虫・蝶などの何千もの標本を集めた。
ところが。それらを抱えて帰国する途中、大西洋上で船に火災が起こった。
まさかの。標本や記録のほとんどが失われてしまったのだ。
人は全員無事だったのだが。救助されたのは、偶然通りかかった船によってであったし、10日間も漂流した後だった。
小型ボートか何かで?本当よく生き残ったな。気力も体力もすさまじい。
心が折れる。
は?お前たちに何がわかるんだよ。
俺しか行ったことのない領域なんだから、どんなに大変だったか、わからないだろ!
全部燃えたんだぞ!?
……なんでだよ。
なんで人生こんなことが起きるんだよ。
もう無理。もう無理だって。
あんなところまで二度と行けないって。あんなの二度と集められないって。
もちろん、私の想像だ。あしからず。
ウォレスはめげなかった。すぐに、次の探検へ出かける準備をした。
言うは易し行うは難しの実例すぎる。
ここで別の道を選択していたら。ウォレスの残したものは、たったこれだけだった。
憧れのダーウィンに認知されることはなく、後世に知られることもなかった。私が今、彼について何か書いていることもなかった。
私が三井寿をもちだしているのには、理由がある。不屈の精神をもつ人物だったのは間違いないが。私はウォレスのことを、なんとなく、こうだったのではないかと思っているのだ。
今度は、東南アジアの島々で8年間をすごした。
不屈の男 兼 無類の生物好きが採集したものを、鳥を例にして見てみる。
『マレー諸島の島々で私が採集した212種の新種』を報告。約10,000種の鳥がいることを考えると、全鳥種の2%をウォレスが発見したことになる。
ウォレスの標本は、哺乳類・爬虫類・鳥類・貝殻・昆虫で、合計125,660点。
新種の発見だけではなかった。
彼の功績として、「ウォレス線」(後にそう呼ばれた)というものがある。
ある日、シンガポール発スラウェシ島着の船に乗り遅れたウォレスは、バリ島とロンボク島を経由する迂回を余儀なくされた。
このことが、彼に、2つのとなりあう島の鳥類群集に著しい違いがあることを気づかせた。
寄り道にも意味はあり得るのだ。
まるで、本当にそこに線でもあるように。
オーストラリアに生息しているコアラが、フィリピンには生息していない。パプアニューギニアとオーストラリアに生息しているカンガルーが、マレーシアには生息していない。
例をあげていったらキリがない。
このように、違いがあるという事実はわかっても。長い間、理由はわからなかった。今でも、完全にはわかりきっていない。
私の書きたい本筋ではないため、他力本願で!
私も過去回で、関連話を書いているが。
種の分布は、地球の歴史と「進化」の歴史によって共同で決定されると。当時そう考えついたウォレスは、すごい。
彼の代表作『動物の地理的分布』のサブ・タイトルは、「地球表面の過去の変化を解明する、現存する動物相と絶滅した動物相の関係の研究」だ。『島の生命』では、彼はこれを「有機的自然と無機的自然の完全な相互依存」と呼んだ。
これらの著作が、世に論争をまき起こすことを期待したが。彼の論文は、さほど影響力をもつことができなかった。
ウォレスとダーウィンは、手紙のやり取りをしていた。
ダーウィンが、生涯でどれだけ多くの人々と手紙のやり取りをしたかについては、冒頭に貼った過去回で詳しく書いた。
ダーウィン「あなたは、自分の論文が注目されなかったことに、驚いたと言うが。私はそうは思わない。種の単なる記述以上のことに関心をもつ博物学者は、ごくわずかなのだから」
ダーウィンは、君はとても素晴らしいことをしているのだから気にするなと、ウォレスを励ましたのだ。大衆からわかられないなんて、当たり前かもしれない。だって、プロにだって君くらいすごい人はいないのだからと。
ウォレスは、ダーウィン(など)の「背中を見て」冒険をはじめた。
そんな人から、自分のしていることを理解してもらえ、賞賛もしてもらえ。どれだけ勇気が出たことか。
現代風に言おうか。推しから直接、応援メッセージをもらった だ。突然、よくわかるだろう。きっとウォレスは、つらい時には、その手紙を読み返していた。
ウォレスは、次の考察をジャーナルなどに送るのではなく、ダーウィンに送ることを決めた。
想像してみて。
パクられるかもと疑っている相手に、送れるか?送れないだろ。自分を信用しきっている相手を、裏切れるか?裏切れないだろ。
「テルナテ論文」(仮名。ウォレスがテルナテ島から送ったもの)は、1858年6月にダーウィンの手元に届いた。
ある地質学者にあてた手紙の中で、ダーウィンは、「私の独創性は、それがどんなものであれ、彼にうちくだかれるかもしれない」と示している。
負けそうで焦っていたと、とらえる見方もあるが。ダーウィンに限らず、そもそも。胸の内にある本当の本当の気持ちなど、誰にもわからない。人は、互いに全てを見せあって生きたりはしない。
ダーウィンは人格者だった。
とても温厚なのに、奴隷に対する考え方で、船長ととっくみあいのケンカをした人だ。自分の判断が長女を死なせてしまったのではないかと、ひどく思い悩み、その日から教会に通えなくなった人だ。
彼はとにかく筆まめだったものだから、多くの記述が残っていて、わかりやすい。「つまらない精神で行動するくらいなら、自分の本を全て燃やした方がまし」と書き残している。
ウォレスは、母親にあてた手紙の中で、「帰国したら著名な人たちと知りあい、助けあえる。うれしい」とつづっていた。
珍しい標本はよく売れたため、ウォレスはじゅうぶんに裕福になったはずなのだが。時間が経つとまた、生活に困窮するようになっていた。やりくりが苦手だったのかもね。
それを知ったダーウィンは、彼に年金が与えられるように尽力した。貢献度を説明したりして。ウォレスは生活費をもらえた。よかったね。
実はウォレスは、たった1人で、今まで書いてきたような功績を残したのではない。
ウォレスの著書『マレー諸島』は、大勢の努力の結晶のようなものなのだ。
ガイドとして雇った10代の地元男性。ウォレスは自伝の中で、彼との思い出をつづっている。
ブル島では、王さまが協力してくれた。
スラ諸島の住民は、「あなたがまだ知らない鳥があの辺りにいる」と教えてくれた。
地元の子供たちは毎日、貝殻や昆虫をとってきてくれた。もちろん、お駄賃がもらえるからではあったが。私の小さな収集家たち、とウォレスは呼んでいた。
最高だ。楽しかっただろうな。
少なくとも1200人、多ければその倍以上が、ウォレスに協力していた(確実な人数はわからない)。
ウォレスには、異なる文化をもつ人々とうまく交流する能力があった。今風に言うと、コミュ力が高かった。
これはダーウィンもだ。あらゆる業界の人たちと文通をしていた。ダーウィンの場合、全くもって彼のせいではなく、つらい想いをするはめになったが。
ウォレスは、世紀で最も偉大なフィールド生物学者にはなれなかったが、幸せだったのではないだろうか。
彼のコレクションが、一度は全て燃えてしまったことを思い出してほしい。あそこで終わりにしていたら、この幸せは確実に得れなかった。
8年かけ、約125,000点の標本を収集。西洋にとって新種となるものは、5,000以上あった。
コレクションの状態は、おどろくほど良好だった。
ある学者は言った。「膨大な量の完璧な手作業だ。もし、彼がきちんとした管理をしていなかったら。これらは粉々になっていただろう」
自分の勝手な目標や夢のために終わらせた、多くの生命。彼は、それらを決して粗末にあつかわなかった。
私たちも、その恩恵を受けている。みんなで感謝しよう。
そこには、進化や自然選択/自然淘汰といった言葉は、一切見られなかったが。
(これは何度も書いてきたが。ダーウィンも進化とは言っていなかった。最終的にダーウィンに進化と言わせたのは、大衆だ。俗世が彼の素晴らしさをつぶしかけた、具体例の1つ)
ウォレスの理論は、自然選択によるそれにかなり近かった。ダーウィンがアイディアをあたためながらも、発表するに至れていなかったものに。
誰よりもダーウィン自身がそう望み、リンネ協会の会合では、両者の考えを(ウォレスの考えも)発表することに。
翌年、ダーウィンの『種の起源』が出版された。
重要なのは、それぞれが遠征し、自然界の探索に時間を費やしていたということだ。
誰だ。どっちがとったとられたなんて話をしているのは。ウォレスはダーウィンが大好きだった。彼が悔しい思いをするとしたら、そんな人らにだ。ダーウィンにではない。
私にさえ、わかる。彼らの本当の夢や目標は、富や名声などではなかったことが。彼らに共通してあったのは、子どもの頃と変わらなぬような好奇心と、自然史を通して世界に貢献したいというような壮大な願望だ。
突然なんの話?と思わずに、聞いてほしい。
モデルの活用について。
・背景として緑色のカードを使用。
・獲物の生物の個体群を表すために、緑色のひも20本と白色のひも20本をカード上にランダムに配置。
・捕食動物の口に見立てたピンセットを使い、10秒間でできるだけ多くのひもを集める。
・残っている緑と白のひもの数をそれぞれ数え、記録。
・このプロセスを数回繰り返す。
両方の獲物が捕食されるとしても。最も高度なカモフラージュをもつ種が生き残る、ということがわかるだろう。
そして、モデルの限界について。
実際には、これらの生物は繁殖し、カモフラージュ遺伝子を伝達することができる。かつては、緑と白の生物が均等に分布していたが。今は、カモフラージュした生物がカモフラージュしていない生物を10対1で上回っているなど。
ひもはひもだ。獲物ではない。白い生物が緑の生物よりもずっと速く動けば、結果はどうなる。変わるだろう。
フィールド・ワークは重要とだけ言うよりは、伝わっただろうか。
私はこれを、あらゆる意味あいで言いたいのだが。
2024年の、ダーウィンーウォレス・メダルの受賞者、ピーター・クレイン教授。
みんなつながっている。人間だけじゃない動植物もだ。友達や仲間は人生の宝だ。夢を追いかけて、一緒に走れるからな。