【書評】『史上最強の哲学入門』(西洋編)も面白すぎる件

ロッシーです。

以前、『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』についての記事を書きました。

今回読んだのは、その西洋編です。

というか、そもそも西洋編のほうが先に出版されているので順番としては逆なんですけどね(笑)。


さて、西洋哲学と東洋哲学の一番大きな違いは何か?

これは東洋編の記事にも書きましたが、

西洋哲学は「階段でゴール(真理)に向かっていく」

東洋哲学は「いきなりゴール(真理)から始まる」

という点です。

だから、西洋哲学は階段を最初から一歩一歩登っていかないと理解できないことになります。

いきなり階段の途中から入ると、前回までのあらすじを知らない状態ですから、何を言っているのかさっぱり理解できないためです。

つまり、西洋哲学は連ドラのようなもので、シーズン1からしっかり見ないとダメということです。

本書は、その点を踏まえ、きちんと西洋哲学の流れが分かるように書かれています。しかも、その語り口が東洋編と同様にやっぱり面白い!

例えば「真理」についての内容は、以下の流れで説明がされます。これを読むと、ゴチャゴチャとしていた西洋哲学の概念や哲学者の歴史上の位置づけがすっきりと理解でき、個人的にはまさに目から鱗でした!


  1.  プロタゴラス ➡ 絶対的な真理なんてない。真理とは相対的なものである。

  2.  ソクラテス ➡ 「価値観なんて人それぞれさ」ではイカン!本当の善とは何か?誰もそれを知らないのであれば、それを追求しようではないか!(無知の知)

  3.  中世時代 ➡ 人間は理性だけでは真理に到達できない。到達するには神への信仰が必要だ(キリスト教)

  4.  ルネサンス ➡ 人間の理性って素晴らしい!(信仰重視から理性重視への転換)

  5.  デカルト ➡ まず真理に到達するための最初の地点として、「誰もが正しいと認めざるを得ない確実なこと」を設定しようぜ!あらゆるものを疑うこの「私」が存在することは確実だ!(我思う、ゆえに我あり)

  6.  ヒューム ➡ 確かに疑う私の存在は確実かもしれない。しかし、その「私」とは一体何だろうか?私というのは、すべて経験によって形作られているものにすぎない。(経験論)

  7.  カント ➡ すべての知識や概念は、人間が経験からつくり出したものにすぎない。しかし、数学や論理学など、多くの人間同士で通じ合える学問が存在する。つまり、経験の受け取り方には、「人間としての先天的な特有の形式」がある。その範囲内なら、みんなで合意できる概念が作れるはずだ。したがって人間として普遍的な真理を打ち立てることも可能である!ただ、それはあくまでも「人間という種」に限定した真理だけどね(コペルニクス的転回)。

  8.  ヘーゲル ➡ 人間にとっての真理があることはわかった。しかし、どうやってそれに到達すればよいのか?それには「弁証法」が使える!誰かが真理を述べたら、別の誰かがそれを否定し、両方を満足させる真理が誕生する。そしてまた別の誰かがそれを否定し、さらに両方を満足させる真理が誕生する。そしてまた・・・(~以下繰り返し)。こうやっていけば、いつかは究極の真理に到達できるはずだ!

  9.  キルケゴール ➡ 弁証法により、最後には究極の真理に到達するって?そんないつ到達するかも分からないものが、私にとって何の意味があるのか!今ここに生きている私が真に納得し、それを得るためなら死んでもかまわないようなもの、それこそが「真理」と呼ばれるべきではないのか?

  10.  サルトル ➡ それだったら、究極の真理へ到達する歴史の進展を、ただ待つのではなく、積極的に俺たち自身で進めようぜ!そのために人生を賭けてみようじゃないか!(アンガージュマン)

  11.  レヴィ・ストロース ➡ いやいや、あなた(サルトル)の言うような、人類が目指すべき歴史なんて本当にあるのか?そもそも、たった一つのゴールしかないと思っているのは西洋人の思い上がりで単なる勘違いじゃないのか?世界には様々な文化や価値観をもつ社会が存在するのだ。それに優劣をつけ、唯一のゴールを設定するのは西洋中心主義の傲慢な思い込みだろ!(構造主義)

  12.  デューイ ➡ よりよい真理に進むはずの歴史っていうけどさぁ、世界大戦2回もやってるわけじゃん。人間の理性ってそこまで万能じゃないんじゃないの?そもそも、真理とか結論の出ないことを延々と議論してもしょうがないじゃん。それよりも、「その効果は何か?」という実用的なことだけ問いかけようぜ。つまり、Aを信じることが人間にとって有用性があるのなら、そのAの真偽は置いといて、Aは真理ってことでいいじゃん。(プラグマティズム)

  13.  デリダ ➡ 真理、真理っていうけど、その真理を誰かが説明したところで、その人の意図を相手がきちんと理解したかどうかなんて分からないのだ。なぜなら、それが言葉というものの限界だからだ。つまり、「話し手の意図」なるものは到達できない真理であり、解釈するしかない不確定な代物なのだ。それなら、そんなあやふやなものをあてにするのはやめて、各人が自分の真理を構築していけばいいのではないか?(脱構築)

  14.  レヴィナス ➡ どんな真理を持ち出して正しい!と言っても、それを否定する「他者」が必ず存在する。とすると、「誰にも否定されない真理を打ち立てること」は不可能である。つまり、絶対的真理の探究という旅はすでに終わっているのだ。でも、だからこそ、私達は自己完結に陥ることなく、無限に真理について問いかけ続けることができるのではないか。

こうやって見てみると、西洋哲学の歴史というのは、まさに弁証法的手法で発展してきたんだなぁと思います。

プロタゴラスの価値相対主義から始まって、結局はぐるっと一周回ってデリダやレヴィナスにより「それぞれが真理を構築すればいい」「絶対的真理なんてない」となったのは面白いですね。

ただ、これで確定したわけではなく、またこれらを否定する哲学が打ち立てられていくのでしょう。

私達が人間である限り、真理への追究は終わらないのでしょうね。

哲学って面白い!

ぜひ皆さんも読んでみてください!

最後までお読みいただきありがとうございます。

Thank you for reading!



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