モーツァルトが嫌いの理由 Philosophy Notes v1.5
天国にいる音楽のミューズは男を去勢させる
天国のミューズが奏でる音楽は真理を求める人に対しては危険だ
哲学者と詩人はプラトン、或いはクリストの世間知らずの甘さ(naivety)を持ってはいけません
女のイデア(Idea)を物語と芸術の仮面に頼って、腐る程甘い道徳の香水に頼って、男を魅了し、混ぜる事は一番致命的な、そして一番残酷な事だ
モーツァルトの音楽を理解できるでも、好かない
私のミューズは噓の雲の上に、金色の光輪で全身全霊を覆うところか、
彼女は真心の地下にいるーーー地獄にいる、欺瞞も装飾もなく、
女の自然の美にままだ
溶岩のお風呂に身を清め、艾の酒を飲み、大きい角すら持ってる
酩酊な歌もする
自由自在だ
空の雲の城で囚われた女性たち(Eternal feminine)*1には違います、雲の城でそれらの女性の精神(spiritus)は神の虜の姫になった、無情な天使たちによって彼女たちは檻の中で閉ざされた。
檻の形のする傷についた彼女たちは、何時か必ず自己を慰めるのために、独房の鉄格子の隙間から下を覗いて、大地の上に歩いてる人々に、アポロンの黄金の光暈の帯びる神々しいの噓をつく、人を「上へ連れる」のは幻想だ。実は私のミューズと一緒に「大地の下へ人々を動させる」。何故なら大地へ、黄土へ戻るのは天国という監獄に囚われた彼女たちの願望だ。
そしてもし彼女たちが太平な天国に居ても、何時か、彼らがそれても生きているだから、凄く悲しい事を会い、そして自然にこの残酷な世に存在する如何にも残酷な死に方や終わり方や、そしてこの世は如何にも男らしい正義と美徳(virtue・語源はvirile男らしい)の欠ける事を、werner herzogさんの映画に見せさせたジャングルの殺伐、穢れと淫靡を彼女たちが喋る。何らかの残酷な物語に通じて子供たちにぶちまける。そして自分の失態を意識して、それを言い逃れをするのために、その如何にも理不尽な物語に強引で不自然なモラルを付ける。絶望的な、無力な、弱い女性らしく抗うモラルだ。
ニーチェの言う、奴隷道徳だ。
真の物事の理を探究し、理解し、制服する哲学、詩と兵法を知らないのための事だ。
私のミューズはそれらの青白く痩せ衰えたミューズたちと違い、彼女がその三つの宝を持ってる、健康そのものだ。
そして彼女は宇宙の欠けているものを永劫であつめる鬼だから、人間の女性ができないものでも、数多の星の天幕の通過する軌跡の輪廻を通じて必ず答えが出せるだろう。
これこそ本当のEternal Princessdom(永遠の姫君)。我が愛しい永劫回帰、蝶々としての私の帰る場所だ。
*1 この阿呆なwiki条目そのものも悪い方なeternal feminineの精神で書いましただと思う。「ゲーテの劇に出た魔女や不倫をした女性はゲーテの理想化した、我々の至高な、神聖な、かつて超越的(transcendental)な(キリスト)モラルの教義に属しべからず、eternal feminineは完璧で、無垢清浄、罪なく女性精神によって、人々を救う教義だ」みたいな志で書いていたのを感じさせる。「道教の(完璧な、衰えない)陰は陽より勝る、全てを育ち、昇華し、含める」、これは道教より儒教。交尾・生殖哲学と出世哲学の教義を基づいた信念らしいな。
ニーチェのeternal feminineの本質についての構想は私の地獄にる鬼の審判官の彼女と結構似てるかもしれないな。
モーツァルトとプラトン主義は詰まらない、香典くさいな中世の西洋風過ぎるです。
ボードレールの「les fleur du mal」で言ってた同じくあの時代(中世)の令嬢と貴婦人は実にほんとの女性美を持たず、欺瞞と装飾でそれ醜さを隠す、如何にも「傷んだ時代の傷んだ果実」であった。
あの西に有った古く乳香に包まれた音楽と詩素敵なものだと分かっているとしても。
私は東にいる沈香に包まれた罪なき地上の天国ものを求める。
その地上の天国についての断罪は、私しか決めることができるものだ。
hence, possibly by way of this sentiment, my elegy to the Woman Clothed with the Sun
故に、多分この様な思いを込めて、私は「太陽を着た女」への哀歌を書いただろう。
(巨大な赤い龍 - Wikipedia より
….「太陽を着た女」)
The Eternal Princess of double Wisdom and Passion,
calls his Name,
Io----my Name!
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