ジュリアン・デュヴィヴィエ監督 『アンリエットの巴里祭』 : 潮目の変わる場所で
映画評:ジュリアン・デュヴィヴィエ監督『アンリエットの巴里祭』(1952年・フランス映画)
非常に興味ぶかい作品だ。だが、この作品の「興味ぶかさ」に気づいた映画評論家というのは、案外いないようだ。たぶん、作品そのものしか見ていないからだろう。
ましてや、一般の映画ファンで、本作の「含意」を考えた者など「いない」と断じても、大筋で間違いではあるまい。
本作が「軽く」扱われてしまうのは、この作品自体は、深刻なテーマを扱っているわけでもなければ、何か「新しいこと」をやっているわけでもないからで、せいぜいユニークと呼んで良いのは、本作が「メタ・フィクション」になっていることくらいであろう。
だがまた、その「メタ・フィクション」としての内容自体も、デュヴィヴィエ監督には「珍しい」コメディ、という程度のことなので、いずれにしろこの作品のことを、多くの人は「軽く」見てしまうのではないだろうか。
本作には、いちおう「仕込みオチ」のようなものはあるのだが、今となっては、それもどうということのないものなので、ここでは、議論の前提として、本作の「ストーリー」を結末まで紹介してしまおう。
見てのとおり、典型的な「メタ・フィクション」である。
映画の脚本を共同執筆する、好みの違った2人の脚本家のやり取りを描く「額縁」部分の物語と、それぞれが提案する「物語の展開(内容)」が描かれる「作中作」部分。それが交互に描かれるのだ。
作中では名前は与えられていないので、ここでは仮に、アンリ・クレミューの演ずる『活劇やエロの好きな脚本家』を「アンリ」、ルイ・セニエ演ずるところの『純愛派ライター』を「ルイ」と呼ぼう。
「作中作」である「アンリエットの物語」は、脚本家「アンリ」の提案または主張による部分(のイメージ映像)では、サスペンス映画風に展開するのだが、それを「ルイ」が否定して軌道修正し、「純愛ロマン」の物語にひき戻して展開させる。
そこでまた、それではつまらない(刺激が足りない)と「アンリ」が主張して、ほとんど唐突なまでに無理やりサスペンスの方へ物語を捻じ曲げて展開させると、今度は「ルイ」が怒って「そんなんじゃダメだ!」と、物語を「純愛ロマン」の方へとまたひき戻す、といったことが繰り返される。
そうした「てんやわんや」な共同作業を経て、この「作中作の物語」も、最後は「何はともあれ、よかったよかった」風の「ハッピーエンド」に、無事着地する。
そこで二人は、この脚本でいこうということになり、主演を予定していた人気俳優ミシェル・オークレール(本作の「作中作」部分で、中心人物3人のうちの一人を演じていた、実在の俳優)にその脚本を読ませたところ、『“これと同じのをもうやりましたよ、デュヴィヴィエ監督の「アンリエットの巴里祭」という映画ですがね。”』と、こういう「オチ」になるのである。
つまり、本作は、「作中現実」である「脚本家の2人」に対し、最後の最後で「いや、じつは君たち自身が、作中人物なのだよ」と言って「作品の外の作者が、ニヤリと笑う」という趣向のオチなのだ。
そして、こうした「メタ・フィクション」に不慣れな観客なら、「えっ、えっ?」となる、といった効果を狙っているのである。
だが、この種のオチが、今の観客にはほとんど通用しないだろうというのは、容易に推測できる。
戦前の観客のように、「作中世界」に同化して(入り込んで)しまうようなナイーブな人たちなら、このオチに足を掬われたような驚きを感じもするだろうが、今のスレた観客は、この種の「騙し」には慣れているので、このぐらいのことではなかなか驚けず、せいぜい「そのパターンで来ましたか」くらいの感じにしかならないのだ。
したがって、本作自体は「ちょっと捻りのあるコメディ映画」ということで済まされてしまう。
また、その一方、作中人物に対する、この「独特の距離感」、つまり「ちょっと距離を置いた、醒めた視線」は、いかにもデュヴィヴィエらしいとも言えるのだが、これは、観客の作品に対する没入感の妨げにはなっても、後押しにはならないから、この場合、デュヴィヴィエの個性は、この仕掛けにはマイナス要素だとも言えるのだ。
しかし、この作品で問題とすべきは、本作が「メタ・フィクション」であり、要は「メタ映画」、言い換えれば「映画に関する映画」である、という点なのだ。
そういう観点から見れば、この作品において、一見して年長の紳士風である『純愛派ライター』の「ルイ」は、言うなれば、フランス映画の「戦前派」を象徴するキャラクターだと、そう考えることができるし、『活劇やエロの好きな脚本家』である「アンリ」は、それに対応する「戦後派」を象徴したキャラクターだと言えるだろう。
だから、戦後派「アンリ」の、「ルイ」の作劇に対する評価は「退屈」「古い」ということになるし、逆に戦前派「ルイ」の、「アンリ」の作劇に対する評価は「品格に欠ける」「夢がない」といったことになるだろう。
そして、こうした二人の葛藤を「戦前派と戦後派の葛藤」と見るならば、私たちは当然のごとく、わかりやすい「戦後派」である「ヌーヴェル・ヴァーグ」(なにしろ「ニュー・ウェーブ」である)のことを思い出すし、その彼らが、デュヴィヴィエを「戦前派」の「古い」映画作家として批判攻撃をした、という歴史的事実をも、思い出せてくれるのではないだろうか。
で、問題となるのは、この作品が作られた「1952年」という時期なのだが、この年、「ヌーヴェル・ヴァーグ」の方はどうだったのかというと、まだ、芽吹いたばかりだったと、そう言ってもいいだろう。
「ヌーヴェル・ヴァーグ」の発火点となった、映画批評誌「カイエ・デュ・シネマ」の創刊が、本作の前年の「1951年4月」だったのだ。
つまり、このことからわかるのは、本作『アンリエットの巴里祭』は、「カイエ・デュ・シネマ」誌の刊行と踵を接して制作された作品であり、「カイエ・デュ・シネマ」誌が創刊後の1年ほどで、どこような記事を載せていたのか、そこまでのことは私には詳らかではないのだが、すくなくともその時期すでに、デュヴィヴィエは「戦後のフランス映画界の空気」が変わってきていることに気づいていた、ということなのであろう。
また、創刊間もない雑誌が、特に「尖っていた」ということも、容易に想定もし得るのである。
したがって、本作に描かれたこと、あるいは、暗に込められたことの意味は、非常に微妙である。
デュヴィヴィエは、自身を含む「戦前派」を象徴させる人物として「ルイ」を描き、それを「戦後派」の「アンリ」に批判させている。けれども同様に、「ルイ」の本音として、「アンリ」の求めるものは「下品」だと感じていることも隠さない。
だが、結局は、二人は協力して脚本を書き上げるのだから、要は「戦前派と戦後派の協力的発展」ということへの期待を語っている、とも言えるだろう。
しかしまた、そうして、やっとのことで完成させた合同脚本が、すでに別人によって書かれており、役に立たないものだったと判明するという「オチ」は、「戦前派と戦後派の、世代間協力という理想」には、多くは期待できず、たぶん失敗(絵空事)に終わるだろうという、いかにもデュヴィヴィエらしい「ペシミスム(悲観主義)」が表われているとも言える。
また、「ルイとアンリ」が協力して書き上げた脚本と同じものを、すでに書いて映画にしていた映画監督の名前として、デュヴィヴィエ自身の名前が当てられているというのは、単に「メタ・フィクション=自己言及的作品」という「形式の要請」というだけではなく、「新しいものを作ったつもりでも、結局のところ、私が作ってきたものと大きく違うものなど、作れはしまい」という、作家的な自負が表明されている、と読むことも可能だ。
そして仮に、デュヴィヴィエがそうした「自負」をこの作品に込めていたとして、では、その「自負」が正当なものであり「当たっていた」と言えるのかどうかとなると、この問題も、そう簡単に答えられるものではない。
というのも、映画であれ、小説であれ、漫画であれ、たしかに技術的な進歩は常になされており、新しい表現が試みられて、常に変わっていると、そのように言える一方で、そういう「表面的な(技巧的な)変化」それ自体が、歴史的には「常態的なもの(恒常的な変化)」でしかないと考えるならば、「映画は、本質的に変わったのか? 本質的に優れたものになっているのか?」つまり「新しい映画は、古い映画より、確実に面白くなっていると言えるのか?」と問うた場合、そう簡単に「面白くなっている」とは言えない現実があるからである。
それに、その種の「社会ダーウィニズム」は、すでに否定されてもいるのだ。
だから、ペシミストであるデュヴィヴィエが「私は、先人たちと同じように映画を撮ってきただけであり、なんら新しいことなどしていません。ただ、観客を楽しませる作品を、精一杯撮ってきただけです。しかしそれは、たぶん私の後の人たちだって、おおよそ同じことなのではないでしょうか?」と考えていても、何の不思議もない。
だから、そういう意味合いにおいて、「自分も昔の映画以上のものを撮れなかったかも知らないが、しかしまた、同じ意味合いのおいて、新しいというだけでは、私の撮ってきた映画以上のものを、そう簡単には撮れまいよ」とデュヴィヴィエが考えたとしても、それは間違いだとも、傲慢だとも、断じ得ないのではないだろうか。
いつの時代にも、「それは古い(われわれは新しい)」と主張し、新しい技法を引っ提げて登場しては、それによって観客たちを驚かせ、新鮮な感動を与える「新しい作家」というのは生まれ出てくる。
一一だが、しばらくすると、そうした新しい作家たちの作風も、「当たり前」なものでしかなくなってしまい、もはや「新しさによる感動」などは喚起し得なくなってしまう。
そして、そうした作家も、やがては「古い」と言われることになってしまうのだ(一部の人が、その時代を「神話化」し、永遠性を与えたとしても)。
こうした「旧世代と新世代」の繰り返される葛藤、あるいは「陣取り合戦」を、一歩退いて、醒めた目で観察するならば、それは、「ああでもない、こうでもない」と、ムキになってやり合っている人たちによる、本作に描かれたような、一種の「コメディ」にも見えるのではないだろうか。
ともあれ、本作中での「戦後派」と思しき「アンリ」が、エロだの暴力だのが好きだというのは、わかりやすい性格設定てあると同時に、予言的でもあろう。
エロなら、ロジェ・ヴァディムが、近いうちに『素直な悪女』を撮って大ヒットさせるし、犯罪映画の方は、ハリウッドのフィルム・ノワールの影響を受けたゴダールが『勝手にしやがれ』を撮って、新しい時代の幕開けを告げる作家になるのだから、「デュヴィヴィエの予言」は当たっていたと、そう言っても過言ではないだろう。
それが、比較的簡単に予想される事態てあったとしても、だ。
(2024年6月24日)
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