エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督 『グリード』 : わが友、シュトロハイム!
映画評:エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督『グリード』(1924年・アメリカ映画)
本作は、モノクロ・サイレント時代の、ハリウッド映画の「名作」である。
今回初めて鑑賞して、個人的には特に面白いとは思わなかった。
だが、本作が「名作」とされる主たる理由とは、たぶん本作が、当時としては珍しい(新しい)「リアリズム」作品であり、人間の業としての「嫌な部分」を呵責なく描いたという点に、その画期性があったからのようだ。
そのあたりを明確に語っている文章が目につかないのは、日本人で本作を見ている人が限られているのと、見た人の多くが「名作」という「通説」に畏れをなして、なぜこの作品が「名作」なのかについて、自分の頭で考え、自分の言葉で語ることをしてこなかったからであろう。
そんなわけで、本作の日本での評価は、もっぱら、日本の映画批評の草分けである「淀川長治」の評価に依存したものであり、それをそのままコピペしているだけだと言っても、大きく外れてはいないだろう。
もちろん、淀川自身は、同時代に本作を含むモノクロサイレント映画を見た者として、正直に自身の評価を語っているのだが、その彼が望むと望まぬとにかかわりなく「権威」化されてしまうと、後続の映画評論家や映画ライターたちは、自身の違った評価については無難に口をつぐんで、淀川の見解に沿った「紹介記事」を書いたのである。だから、つっ込んだ「個人的な評価」というものが、さっぱり見当たらないのだ。
例えば、本作の「Wikipedia」での「あらすじ」紹介は、次のようになっている。
物語の冒頭だけを紹介した、この短い文章で問題となるのは、
の部分だ。
つまり、のちに3人の関係に暗い影を落とすことになるこの「富くじ」は、ここでは「マーカスがトリナに買い与えた」ことになっているのだが、事実がそうでないことは、映画を見ていれば一目瞭然である。
実際には、マクティーグ(マック)の歯科医院で順番待ちをしていた、マーカスとトリナのところへ、掃除婦のマリアがやってきて「富くじを買ってくれ」と言うと、マーカスは「富くじは違法だぞ」と断るのだが、マリアが「肉屋は20ドルを当てたよ」と言うと、マーカスは顔をしかめるだけだったが、トリナは「しかたないわね」みたいな笑みを浮かべて、ハンドバッグから1ドルを出して払い、自分で富くじを購入するのである。一一だから、上の紹介文は、明らかに「事実誤認」なのだ。
では、どうしてこのような「大切な伏線」について、明らかに誤った記述が、いまだに「Wikipedia」でなされているのかというと、要は、この説明は、淀川長治が残した「紹介」の一部コピペだからである。
私が見た「IVC」版DVDにも、音声付き映像で収録されている、淀川長治の「紹介」だと、この部分は次のようになっている。
見てのとおり、『マーカスは二人に富くじ一枚やったんですね。』と語っており、この「紹介」を無批判になぞったので、「Wikipedia」でも上のような「誤り」が、いまだに「そのまま」残っているのだ。
では、淀川長治は、どうしてこうした初歩的な間違いを語ったのかと言えば、それは彼が「作品紹介」する際は、基本的に「記憶」だけでそれを行なっていたからである。
ではなぜ「記憶だけで語ったのか」と言えば、それは淀川が「作品紹介」を語った頃には、まだビデオやDVDといったものが一般には普及していなかったので、「作品紹介」をするにあたっても、基本的には映画館で見た時の「記憶」に拠ったのであり、あとで確認するということが容易なことではなかったからなのだ。
したがって、この種の「記憶違い」については、昔は世間も鷹揚だったのである。そんなにたくさんの作品を見ている人もいなければ、ましてや記憶している人など、他にはいなかったからである。淀川長治は、日本における、古い映画の「生き字引」だったのだ。
しかし、当然のことながら、淀川長治のこうした「記憶違い」は、なにも本作だけに限られるものではない。
映画マニアではない私が気づいただけでも、例えば、スタンリー・キューブリック監督の傑作『2001年宇宙の旅』についても、淀川はその著作『淀川長治 映画ベスト100&ベストテン』の中で、同作を紹介して「ボーマン船長は、宇宙船での孤独な長旅の中で、徐々に狂っていく」というような説明をしており、有名な「人工知能HAL9000の反乱」ということを、すっかり失念したままの「作品紹介」を残しており、同書の編者も、その点について、正しも指摘もしていないのだ。
だが、『2001年宇宙の旅』の場合、今も人気のある有名作品ゆえに、同淀川書についてのAmazonカスタマレビューでは、レビュアー「タヴァーン」氏が、レビュー「『2001年ー』のストーリーは直して欲しい」の中で、次のように指摘している。
つまり、淀川長治を尊敬し神格化するが故に、その言葉を「聖典」扱いにして、これまではその「誤り」に気づいても、映画業界関係者は、それを公然として指摘して、その誤りを正すということをしてこなかったのだ。
だから、本作『グリード』の「Wikipedia」においても、たぶん執筆者は、淀川の「作品紹介」が誤っていることに気づいていながら、淀川の「作品紹介」に準拠した「紹介」をしたのであろう。淀川の誤った記憶を、(後で紹介する、キッスの部分だけ)一部修正してあるところにこそ、それが窺えるのである。
ここで重要なことは、その業界的な「権威主義」のせいで、誤った情報がそのまま残されてしまうということだけではなく、「権威による評価」には異論が唱えられない状態が、今も「現にある」、という点なのだ。
たしかに淀川長治が、日本の映画界に遺した功績は誰人にも否定できない大きなものではあるのだが、しかし、淀川とて人間なのであれば「記憶違い」くらいはあって当然だし、まして昔は、その記憶の自己検証が簡単にできるような環境にはなかったのだから、淀川が昔の記憶のままを語ったことを責めるのは、酷だとも言えよう。
だがまた、淀川への敬意は敬意として、尊敬の念を持った上で、その「事実関係の誤りを正す」ことはできたはずだし、それはなされて然るべきことだったのだが、それがなされなかったのが、日本の映画界だった、ということになるのである。
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そんなわけで、本作については、私は淀川長治ほど、高くは評価できない。なにしろ、本作を見た「時代が違う」のだから、それは仕方がないことなのだ。
本作の「歴史的意義」は尊重するけれども、かと言って、自分の「実感」を「偽る」ことはできない。そんなことをする人間には、映画を語る資格など無いのである。
したがって、私としては、本作が「面白かった」とは到底言えないが、しかし、いくつか「興味深い」部分はあった。
本稿では、そのあたりについて書いてみたいと思うし、そちらこそが本稿の主眼なのである。
さて、私が今回本作を見たのは、上の『淀川長治 映画ベスト100&ベストテン』で、淀川が本作を絶賛して、自身の「オールタイムベストテン」にまで入れていたからである。これでは、見ないわけにはいくまい。
で、見てみた結果は、ここまで書いたとおりなのだが、しかし、私が興味を持ったのは「淀川長治は、どうしてここまで『グリード』を高く評価したのか?」という疑問においてであった。
管見の及ぶかぎりであるが、蓮實重彦がこの作品を褒めていたというのを、私は知らない。もちろん、シュトロハイムには時々言及しているが、その際に『グリード』を絶賛していたというわけではないのだ。
一方、フランスの「ヌーヴェル・ヴァーグ」の発火点である映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』の初代編集長である映画評論家のアンドレ・バザンは、その著書『映画とは何か』で、「古典」のひとつとして本作の名を挙げていたから、バザンは本作を高く評価していたと見ていいだろう。
だが、いずれにしろ1918年生まれのバザンもまた、淀川の9つ下なだけで、ほとんど同時代に生きた「昔の人」なのだから、その評価は、そういうものとして理解すべきなのである。
つまり、同時代に『グリード』を見た人にとっては、同作は「斬新孤高の傑作」であったのだが、私のような「今の人間」では、そのあたりについて、同様の実感を持って見ることはできなくて当然だ、ということである。
したがって、先に提出した「淀川長治は、どうしてここまで『グリード』を高く評価したのか?」という疑問については、「同時代に見た人としての評価」だと理解するだけでも、いちおうの説明にはなるだろう。けれども、淀川の「熱心な評価」は、ただそれだけではないと、私は見たのだ。
一一私が、以下に書きたいのは、その点なのである。
さて、そんな私なりの「解答」を先に書いておくと、淀川長治が本作『グリード』を極めて高く、かつ熱心に評価した理由は、彼の「個人的な事情」に関わるものだと、そう見る。
つまり、自身を作中人物に重ねた結果、本作を「身につまされて」見たから、他を持って代え難い作品になった、ということである。
では、その「個人的な事情」とは何かといえば、それは、淀川長治が「ホモセクシャル」であった、という事実だ。
つまり淀川は本作を、「欲深な女によって引き裂かれる、男たちの友情悲劇」として見たのではないかと思うのだ。
上に引用した、淀川長治の本作「紹介」の、後半部分は、次のようになっている。
つまり、マーカスは、トリナを譲っただけではなく、「富くじ」の賞金さえ「持って行かれた」かたちで、すっかり腐ってしまい、親友であったはずのマクティーグに嫉妬し、憎むようになるのである。
なお、先にも指摘したように、「富くじ」は、トリナが買ったものであって、マーカスが二人に与えたものではないから、それを妬むのは筋違いだと、そう思われるかもしれないが、そのあたりについては、映画でも、きちんと説明がなされている。
要は、マーカスとしては、マクティーグにトリナを譲ってさえいなければ、自分がトリナと結婚していたのだから、当然「富くじ」の賞金も、自分の方へ入ってきていたのにと、そう考えて後悔し、腐ったのである。
ともあれ、そんなわけで、マーカスは、ラッキーなマクティーグを妬むようになる。
一方、淀川長治の「紹介」にもあるとおり、トリナはやがて「守銭奴」と化していき、彼女のベタ惚れだったマクティーグも、やがては嫌気がさしてきて、とうとう彼女と別れることになる。だが、その頃には彼の「歯科医師」の仕事は「医師会の無許可営業」として、すでに奪われていたから、トリナと別れた後、仕事もなくすっかり落ちぶれてしまったマクティーグは、ある夜、トリナの新居を見つけて、金をせびりに行く。
だが、それを冷たくあしらわれたために、マクティーグは、トリナが後生大事に隠し持っていた「富くじの賞金」を強奪して逃亡し、指名手配を受けることになる。
そして、その頃、同じく落ちぶれて牧童になっていたマーカスは、マクティーグの首に賞金がかかっているのを知り、その賞金欲しさにマクティーグを追跡する。そして、「死の谷」と呼ばれる広大な砂漠の奥地へと逃れていたマクティーグについに追いつくのだが、その時すでに、砂漠から町へと引き返すだけの「水」が残っていなかったため、マーカスはマクティーグの手首に手錠をかけ、自分と繋いだままで死んでしまう。マクティーグもまた、遅れてその運命を共にする、というところで、この物語は終わるのだ。
つまり、もともとは親友だった二人が、守銭奴の女のためにその友情を引き裂かれ、その結果、最後は、二人は手錠で繋がれたまま死を共にするという「恋愛悲劇」だと、本作をそう見ることも可能なのである。
で、たぶん、そのあたりで淀川長治は、「好きな男性と結ばれ得なかった思い出」といった「個人的な事情」を本作に投影して、「他人事とは思えない切実さ」で本作を見たから、忘れられない作品になった、ということなのではないだろうか。
私が、こうした「推理」をするのは、私の好きな作家には、小説家の中井英夫や赤江瀑、挿絵画家の村上芳正、人形作家の辻村ジュサブローといった「男性同性愛者」が少なくなく、そうした人たちの書いた作品や文章を読んだり、一部には多少の交流があったりもしたから、「男性同性愛者」の、そのあたりの「感覚」については、なんとなく「わかる」部分もあったからである。
つまり、彼らは「世間から認められない恋情」に生きなければならなかった人たちだった(同性愛者は「変態」と呼ばれて差別され、社会的に抑圧された)ので、かえって「愛人」を求める気持ちが極めて強く、「情が濃い」部分があったのだ。無論、例外はあったとしてもだ。
そして、そうした事情は、たぶん淀川長治についても、おおよそ同様だったのであろう。
だからこそ、その傍証として、淀川長治の本作「紹介」で注目すべきなのは、トリナに対する、淀川の過剰なまでの否定的評価である。
淀川は、上の「作品紹介」の中で、トリナについて、次のように紹介している。
この中の、次の部分だ。
(1)の部分では、淀川はトリナを『妙な顔した女、綺麗じゃないんですね。妙な顔した女』だと、「醜女」であることを強調し、それでいて『どこかに肉欲的な、どこかに男を誘惑するようなムードがある』と、男を惑わす「悪女」であるかのように語っているが、映画を見るかぎり「そんな事実は無い」のだ。
つまり、トリナを演じた女優は、典型的な美女ではないとしても、それなりに整った顔をしているし、十人なみ以上には美人だと言えるだろう。
(2)の部分については、トリナがマクティーグを「誘惑した」かのように書かれているが、その事実も無い(Wikipediaも、誘惑したとは書いていない。つまり、この部分は、淀川説を修正している)。
二人が初めてキッスするシーンでは、トリナは抜歯のために麻酔をかけられて眠っており、その寝顔に魅せられて、マクティーグの方が自分を抑えきれずに、一方的にキッスをしたので、トリナに責められるような点はなく、むしろ被害者なのである。
では、淀川長治は、どうして、このような露骨な「記憶改変」を行なってしまったのかといえば、それは先にも書いたように、たぶん淀川は、本作に自身の「体験」(あるいは、思い出)を重ねて、この物語を「悪女によって引き裂かれた、男同士の悲恋物語」として見てしまい、それに感動して、そのイメージを記憶に刻みつけてしまったからではないだろうか。
つまり、本作に関する、淀川長治の「記憶違い」は、単純なそれではなく、「個人的な事情による記憶の改変」があったのではないかというのが、私の推理なのである。
まあ、そうした「推理」の当否は別にして、本作のストーリーに関する「事実誤認」は、さっさと正されるべきだと、そう提言しておきたいと思う。
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次は、上の「淀川長治問題」とは全く別の話で、私が本作を楽しめた、もうひとつの点について書きたいと思う。
正確には、「本作が楽しめた」と言うよりも、本作を鑑賞したことにより、エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督を詳しく知ることができ、すっかりシュトロハイムファンになったという、その事情である。
本稿のタイトル『わが友、シュトロハイム!』は、こちらの事情を指したものなのだ。
では、私は、シュトロハイムのどこに惚れ込んだのかというと、その「我が道をゆく、非妥協の完全主義者」ぶりの部分である。
そもそも私がシュトロハイムに注目したのは、先日鑑賞した、ジャン・ルノワール監督の『大いなる幻影』(1937年)に、「俳優」として出演していた彼に、すっかり魅せられたからである。
そして、今にして思えば、この作品で私が最も惹かれた部分は、多分に「ホモセクシャル」的な部分だったとも言えようから、やはり私にも、多少はそのケがあるのかもしれない。
ともあれ、『大いなる幻影』で、エリッヒ・フォン・シュトロハイムの存在を知った。それで「Wikipedia」を見てみると、彼はもともとは「映画監督」だったのだが、その完璧主義のゆえに制作予算を使いすぎて、映画監督として干されてしまい、しかたなく俳優に転じた、というようなことが書かれていた。
それで、彼の撮った作品とやらも気になっていたのだが、その矢先に読んだ、淀川長治の前記著作の中で、シュトロハイムの『グリード』が絶賛されていたから、「これは見なければ」と思った、という次第である。
ちなみに、エリッヒ・フォン・シュトロハイムという人が、どんな人なのかは、以下の議論では重要な部分なので、少々長くはなるが、「Wikipedia」から彼の経歴等を、ひととおり引用紹介しておこう。
いやもうハッキリ言って「やりたい放題」「言いたい放題」である。
これでは「ユニヴァーサル」社を放り出されても仕方がない、とも思う。
でも、私はこういう「徹底した」人が好きだし、そうした意味での「変人」が好きなのだ。
「生ぬるい常識人」には興味がないし、そうした「その他大勢」を批判する時には、聖書(黙示録)の引用も辞さないほどで、腰の引けた人間が好きではない。
だからこそ「シュトロハイム、最高!」だし、私自身もこれまでの人生で、何度となく、同好会などから放り出され、一人になってからも、「mixi」からも「Twitter(現・x)」からも、「Amazon」からさえも追放された身なので、シュトロハイムを他人とは思えないのである。
だからこそ、「わが友、シュトロハイム!」なのだ。
で、こうしたことは、あくまでも、シュトロハイム個人に対する個人的思い入れであって、本作『グリード』の評価と関連するものではない。ここまでも書いたとおり、私は、この作品自体は、それほど面白いとは思わなかったのだ。
ただし、本作において、私が真っ先に注目した点があった。
それは、シュトロハイムが本作で「何が言いたかったのか」を窺わせる、重要な部分である。
「Wikipedia」にもあるとおり、「MGM」社に移籍後第1作である本作は『アメリカの生んだ自然主義作家フランク・ノリスの長編『死の谷』』(原題は、主人公の名前『マクティーグ』)を映画化したものなのだが、本作で注目すべきなのは、冒頭部分で、この原作本の書影が映された後、そのページがめくられて、そこから本文中の、次のような言葉が、本作のテーマを示す「緒言」ででもあるかのように「引用される」点であろう。
その言葉とは、次のようなものである。
つまりこれは、シュトロハイムを放り出した「古巣」ユニヴァーサル社への「決別の辞(憎まれ口)」なのであろう。
「お前らは、金のことばかり言って、ぜんぜん作品のことを考えていなかった。だが、私は違う。私は、映画に全身全霊を注ぎ込んだのだ。だから金もかかったのだが、それを後悔などしていない。私の方が正しかったことは、やがて歴史が証明するだろう」
と、こういう「宣言」だったのである。それ以外、あるまい。
つまり、本作『グリード』(貪欲)というタイトルは、ユニヴァーサル社への「あてつけ」の意味もあったし、また、それに代表される「金のことばっかり考えている奴ら、金のために妥協してばかりいる奴ら」の「見苦しさ」を描いた、「リアリズム」作品なのである。
言い換えれば、淀川長治は、「悪役」をトリナひとりに押しつけて理解したけれども、シュトロハイムにしてみれば、トリナだけではなく、マクティーグもマーカスも、結局のところ最後は「金の亡者」になって、哀れにも野垂れ死んだと、そういうことを語ったのではないだろうか。
「もちろん、金は必要だ。だが、金の亡者になったら、それは哀れな人生なんだよ」と、シュトロハイムは、そう本作で語りたかったのではあるまいか。
これが私の『グリード』理解なのである。
(2024年7月9日)
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