天使的: 浅田彰論序説 一一『柄谷行人 浅田彰 全対話』
書評:『柄谷行人浅田彰全対話』(講談社文芸文庫)
「柄谷行人論」なら数多く書かれているだろうが、「浅田彰論」は、あまり見当たらないようだ。浅田彰ほどの華々しいデビューと活躍をしながら、どうして浅田の場合には、作家論があまり書かれないのだろうと、私はそう考えた。
思うに、浅田彰の才能は「巨大すぎる」のだ。巨大すぎて、多くの人の視野にその全貌が収まりきらないのではないか。その一部しか見えず、またその一部を、すべてと思い違えているのではないだろうか。
例えば、本書のあとがきにあたる「浅田彰と私」で、柄谷行人は浅田について、こう語る。
当時、浅田彰は三十そこそこの若者だった。にもかかわらず、これだけの幅広いジャンルに通じており、しかも『機敏で、周到で、精確であった』のだ。
「幅広いジャンルに通じている」人を、よく「博覧強記」と呼ぶが、浅田彰がそう呼ばれることはない。
なぜならば、浅田の場合は、単なる「物知り」なのではなく、それほど幅広い事象に対して「精確に通じていた」からである。それぞれのジャンルで、その専門家たちと議論しても、まったく見劣りがしない「周到で、精確な理解」を持っていたからこそ、浅田彰には「博覧強記」などという浅薄な呼称は、まったくそぐわないものだったのである。
「柄谷行人論」が数多く書かれたのは、無論、柄谷が「時代を画する知の巨人」であったからだろう。そうした巨人たちは、それまで「当たり前」であった風景を一変させてしまうような「知の一撃」を世界に加え得た稀有な存在であり、それ故に目立ちもした。その、時代を越えゆく「異彩」に、誰もが目を見張らざるを得なかったのだ。
ところが、浅田彰はそういうタイプでなかった。
浅田彰は、幅広い事象に対して、つねに「機敏で、周到で、精確」な理解を示した。それはどれもこれも「非凡」であり「本質的」であった。浅田彰の「非凡」は、わかりやすい「単色」ではなく、「七色」に変幻する態のものであり、だからこそ凡人の目では、それを断片的にしか捉えることが出来なかった。
本書所収の最後の対談「再びマルクスの可能性の中心を問う」で、二人はマルクスの「常に移動しながら、その差異の中で状況を批判し続ける」という身振りの重要性を強調している。
「移動」と「体系化への欲望の拒絶」。
「移動」ということを「固定化・権威化からの逃走」というふうに理解し、さらにそこへ「体系化への欲望の拒絶」ということを加えれば、これはまさに、浅田彰のことではないだろうか。
上で語っているとおり、柄谷自身、「固定化・権威化からの逃走(拒絶)」ということを強く意識しているのだけれど、しかし先にも指摘したとおり、柄谷行人という人は「時代を画する知の巨人」として、私たちに一定の「固定したイメージ」を与えている。いかに柄谷自身が、それを嫌おうと「時代に批判的に立ち向かう人」としての柄谷行人には、まさにそうした「イメージの固定化・権威化」がなされており、だからこそ私たちにも、柄谷行人の偉大さが理解しやすいのである。
しかし、そうした「イメージの固定化・権威化」が、浅田彰には希薄なのだ。
浅田には「とにかく賢い人」というイメージはあっても、「個性的なイメージ」というものが希薄で、言うなれば「無性的」だ。
つまり、浅田彰は、「人間的」なもの「肉体的」なもの(つまり、固定的なイメージ)から、まんまと「逃走」しうせたのである。
こうした、浅田彰の「とらえどころのなさ」あるいは「非凡な自由さ」を、私は「天使的」と呼びたい。
人間の「肉体」的な欲望に縛られない彼は、初期の代表作『構造と力』や『逃走論』のイメージにとどまる(自己模倣的再生産によるイメージの強化にとどまる)ことなく、悠々と浮遊し移動しすり抜けて、私たちの目では充分に捉えることの出来ない存在なのだ。
しかし、そういう存在であるからこそ、彼は「地上の巨人」たる柄谷行人の「導きの天使」たることも出来たのではないか。
あくまでも「主人公」は、柄谷行人である。だが、浅田彰という稀有な「道を照らす、導きの天使」がいたからこそ、柄谷は「縦横無尽の活躍」をすることも出来たのではないだろうか。
柄谷は「浅田彰と私」の末尾を、こう締めくくる。
その天使は、彼のもとにさえとどまらなかった。
これは「去りにし天使」へのラブレターなのかもしれない。
初出:2019年10月25日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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