梶山雄一 『大乗仏教の誕生 「さとり」と「回向」』 : 実質的 浄土信徒 学者から見た 〈大乗仏教の発端〉
書評:梶山雄一『大乗仏教の誕生 「さとり」と「回向」』〈講談社学術文庫〉
「仏教」と一言で言っても、それは膨大な広がりを持つものであり、どんな碩学であろうと、その全体を詳しく見渡せた人など、一人もいないのだという事実を、私たちはくれぐれも忘れるべきではない。
「宗教学者」というのは、当然のことながら「宗教」に興味を持った人がなるものだし、その興味の持ち方とは、否定的な興味ではなく、たいがいは肯定的なものであるはずだ。つまり、宗教学者になる人には、もともと「宗教」的な「真理」や「哲学」に惹かれる気持ち(感情)があるはずなのだが、いざ「学者」になってしまえば、「学者」としての「科学的客観性」と、研究対象への「公正中立さ」が求められるから、自分がもともと持っていた「超越性への希求=信仰心的なもの」を、自覚的に抑制しなければならなくなってしまう。本当は「純粋な信者になりたい=理屈ではなく、無条件に信じたい(検証抜きで鵜呑みにしたい)」という気持ちがあっても、それをぐっと抑えて「客観的な学者」であらねばならない。それが「学者の職業倫理」だからである。
しかし、人間というものは、理屈で感情を抑えきれるものではない。だから、外見的には「中立的」に振舞っても、心の中では「特定宗派の信仰に惹かれている」などということは、当たり前にある。しかし、その事実を「職業倫理」のゆえに公然と認めることができないとなると、どうしても心理的な「抑圧」であったり、意図的な「隠蔽」といったことにもなってしまいがちだ。
もちろん、自覚的な「個人的感情の抑圧」は、学者としての「倫理的努力」として肯定的に評価されるべきなのだが、表面だけを糊塗する「隠蔽」や「欺瞞」の方は、その学者の「学問の信頼性(良心)」にかかわる問題となってこよう。形だけは中立を装い、公平な判断を語っているかのように見せかけているけれど、じつは「学問の装いで隠蔽しながら、自身の党派的な欲望を満たしている」なんてことも、現にあるからだ。
しかしまた、実際問題としては、「宗教学者」になる人は「宗教が好きな人」だけではなく、単純に「寺院の息子」であるといったことが少なくない。つまり、はっきりと自身の「党派的信仰」を持っており、その「特定教義に即した価値観」を、すでに内面化しているのである。
したがって、こんな学者は、どんなに善意に努力をしたところで、完全に「公平中立」的な判断を下すことなどできない。良くて、自身の宗派にはことさら厳格に対するくらいであって、実際、多くの場合は、どうしたって「自宗派びいき=身内びいき」になってしまわざるを得ないのである。
だからこそ、「宗教学者」たる者、「信仰心」を持つのは仕方がないとしても、特定信仰を持っているのであれば、それを公明正大に世間に公表して、自身の学問的業績が「公正中立で客観的」たり得ているかを、世間の批判に委ねるべきなのだ。だが、多くの「宗教学者」は、そのへんを積極的に語ろうとはせず、隠してもバレずにはいない身元なら「尋ねられた場合は隠さない」といった、きわめて消極的な態度で、誤魔化している場合も少なくないのである。
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では、本書の著者である梶山雄一の場合は、どうだろうか?
本書の奥付ページにある「著者紹介」に、梶山が特定宗教宗派の信者であるという記載はないし、Wikipediaにも、そのような記載はないから、ひとまず梶山が、僧侶であったり、寺院の息子であったりということはないようである。
しかし、それはそのまま梶山が、すべての宗教宗派に「中立」的である、ということを意味しはしない。
例えば、梶山家代々の宗派は何だったのか、両親は「無宗教」だったのか、それとも何らかの宗派寺院の檀徒だったのか、信者だったのか。一一こういったことまでは、「著者紹介」やWikipediaにも書かれていないのが、普通なのである。
しかし、人間の生まれ育った環境は、決して馬鹿にできない。自覚的な信者ではなくても、幼い頃から接してきた宗教宗派に対しては、それ以外の宗教宗派に対するのとは違った「感情」を持ってしまうというのは、人間として、ごく当たり前のことだからである。
そして、そうした目で見ていけば、本書の著者が「浄土宗」に、特別の愛着を持っているというのは明らかであろう。それは、本書で語られたことにも明らかだし、Wikipediaに紹介されている、
という「来歴」にも明らかである。
梶山をめぐっては、「浄土宗」「浄土思想」という言葉をなんども目にするが、「法華」や「真言」といった言葉を目にすることは、まず、ないのである。
しかし、私は何も、だからと言って、梶山の宗教研究が「中立性」や「客観性」を欠いたものだなどと言いたいわけではない。そうではなく、梶山の学問は、そちらに力点が置かれていて、決して「仏教」全体を満遍なく知った上で語ったものではないのだ、という事実を確認したいのである。
これは、当たり前といえば当たり前な話なのだけれど、「宗教研究というもののアポリア」ということを考えたことのない門外漢には、意外にあっさりと見過ごされてしまうところなのだ。
「学者というのは、公平中立で客観的なものである」とか「学者なら、全体を知った上で判断しているはずだし、恣意的な党派性など、あるわけがない」などと、門外漢はナイーブにも信じてしまいがちなのだが、「人間」の現実は、そして「人間のおこなう学問という営み」の現実は、そこまで「理想的」なものではあり得ない。そうあろうと努力する必要はあるけれども、それはあくまでも「理想」であって、「今ここの現実」ではないのである。
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さて、このような前提に立って読めば、明らかに本書は、「浄土宗」にシンパシーを持っている宗教学者による、「浄土宗寄りの大乗仏教論」だと評すべきであろう。
どんな碩学でも、すべての宗教宗派を完全に押さえた上で客観的判断する、ということはできないのだから、本書における「阿弥陀如来による西方浄土への成仏」に看て取れる「回向」に「大乗仏教」の発生論的根拠の一つを見るという本書著者の「見解」は、決して不当なものではないし、十分に興味ぶかいものだと評価しうる。
ただ、こうした「解釈」は、いろんな立場から、いろいろに立てられ得るものだということを、読者はよくよく理解しておかなければならない。特に初学者の場合は、本書著者の立場に引きづられ、初手から視野を(浄土宗寄りに)限定され、方向付けられてしまう恐れもある。
したがって、私としては、本書における梶山雄一の「大乗仏教の起源」論は、「一つの意見(解釈)」としては興味ぶかいし、敬意を表すべき卓見だとは思うけれど、いずれにしろ「仏教」が解き明かそうとした「この宇宙の真理」は、釈尊でさえ(ほぼ間違いなく)知らないのだから、その釈尊が説いた後、さらに発展拡大した「仏教」についての、唯一絶対的な「正統解釈」というようなものは、そもそも「存在しない」のだということを、確認しておきたいと思う。
その上で、「この宇宙の真理」は、先人たちのいろんな「解釈」を参考にしつつも、結局は、それぞれが自分で探求しなければならないものなのだ、ということを確認したいのである。
無論、このような立場からすれば、読者は、宗教宗派的な「専門用語(の権威)」など、恐れる必要はさらさら無いし、そんなものに振り回されている「俗物」など、そもそも釈尊以下の仏教徒が求めた「真理」としての「さとり」とは、まったく無縁な徒輩だと、そう理解して安心すべきだし、安心できるのである。
初出:2021年8月18日「Amazonレビュー」
(2021年10月15日、管理者により削除)
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