フィリップ・K・ディックの 〈堕胎〉批判 : マーク・ハースト編 『ザ・ベスト・オブ・P・K・ディック 〈4〉』
書評:マーク・ハースト編『ザ・ベスト・オブ・P・K・ディック〈4〉』(サンリオSF文庫)
フィリップ・K・ディックという作家は、奇妙な小説を書く作家だと思われている部分が少なくないと思うのだが、その根底にあるのは「懐疑と批判」なのではないかと、私は考えている。
無論これは、1928年生まれの彼が、戦争を体験し、その後のベトナム戦争期前後の世界的な反体制運動の洗礼をうけた人だというのは間違いのないところなのだが、それは同世代の人間なら誰もがそうで、彼が特別に、終生「懐疑と批判」の人だったというのは、彼個人の資質によるところが大きいはずだ。
たとえば、彼のよく言えば「繊細」、悪く言えば「神経質」なところが、「懐疑と批判」という性格を呼び寄せたというのは、ほぼ間違いのないところだろう。
だが、理由はどうであれ、彼が「懐疑と批判」の人だったのは、否定し難い事実というほかないだろう。
たとえば、「Wikipedia」では、彼の特徴の「概要」を、次のように紹介している。
これはどういうことかと言えば、要は「いま見えているものは、本当に真実なのか?」という「懐疑」であると言えるだろう。その対象が、「政治や社会」などの「リアルな問題」であろうと、「意識や世界観(宗教・神学)」といった「哲学的な問題」であろうとだ。
そして、そうした特徴は、これまでの「ザ・ベスト・オブ・P・K・ディック」シリーズの1〜3巻よりも、本書では、より一層いろ濃く出ているように思われるし、作品によっては、批判の内容が露骨すぎて「鼻につく」という読者も、少なくないのかもしれない。
しかしながら、「懐疑と批判」こそが、フィリップ・K・ディックという作家の本質であり、「人造人間」だ「偽物」だ「シミュラクラ」だといったことは、ディックの「根源的な懐疑」から出てきた「わかりやすい表象」でしかない、とも言えるのではないだろうか。
マーク・ハーストによって編まれた『ザ・ベスト・オブ・P・K・ディック』の後編にあたる当第4巻の収録作品は、次のとおりである。
見てのとおり、本巻にも、作者自身により各収録作品についての「作品メモ」が付いていて、それを読んでしまうと、どうしても「読み」がそちらへと引きずられてしまうのだが、できるかぎり私なりの読みを、ここで簡単に記しておきたいと思う。
(1)は、「酒・タバコ・女」という見え透いた商品化にさえ、あえなく敗れる人類のファルス、といったところだろうか。
(2)は、その時々「管理と自由」をめぐって繰り返される、果てしない人類の抗争の歴史を象徴した、ディック版「大審問官」(ドストエフスキー)。
(3)は、「美しいものには棘があった」という、安易な干渉主義の傲慢と自滅を描く。
(4)は、商業主義にいいように操られてしまう人間の愚かさと、商業主義批判。
(5)は、CM(に象徴される商業主義)の暴力性への批判。
(6)は、人間は、悲惨な現実だけを見て生きてはいられず、何らかの虚構を持たざるを得ない、という悲哀。
(7)は、(6)とは逆に、無駄(遊び)を許さない現実主義に虐げられた者の、復讐的幻想を描く。
(8)は、「堕胎」とは結局のところ、「強者(大人)」が「弱者(子供)」に犠牲を強いているだけだ、という本質的な批判。
このように見てくると、ディックの本質が「懐疑と批判」だとは言っても、さらにその根底にあるのは「弱き者」「踏み躙られる者」への「共感と愛着」だと言えるだろうし、その象徴が「子供」だということになろう。
子供は、多くの場合「哀れな被害者」であり、だからディックはそちらの立場から彼らを同情的に描き、時には(7)のように、彼らによる恐ろしい報復劇をも描く。
そして、そうしたフィリップ・K・ディックという人の、「弱き者」「踏み躙られる者」としての「子供」への愛着が、今も古びない「現実的な政治的主張」としてあらわれた「稀有な傑作」が、最後(8)の「まだ人間じゃない」だと、そう言えるだろう(大森望訳では「人間以前」)。
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「まだ人間じゃない」では、子供の人権の大きく奪われた世界が描かれる。
今現在の現実においても、先進国の多くでは、「堕胎」は「殺人罪」には問われない。なぜなら「胎児」は「まだ人間じゃない」からだ。
この作品で描かれた世界では、かつての世界が現実にそうであったように、「人口爆発の危機(資源の枯渇)」が大きな課題となっており、子供の増えすぎることが懸念されていた。
その結果、子供を減らす方策のひとつとして「堕胎」をとらえ、さらにその拡大解釈の根拠として、「人間の定義」を変更した。
この作品の世界では、子どもは「12歳」になるまでは「人間」と認められないと、法律で定めたのである。
つまり、12歳までの子供は「ペット動物」みたいなものであり、親に養育意思があってこそ育てても良いが、親から養育を放棄された子供は、要は「野良子供」ということになって、野良犬や野良猫と同様、駆除の対象となっており、駆除トラック(通称「堕胎トラック」)においては、人間の子供も、野犬や野良猫と一緒に、トラックの檻に放り込まれることさえある。
そして、郡の施設に収監された子どもたちは、犬や猫と同様に、一定期間(30日間)は「引取主」のあらわれるのを待つが、それが過ぎると「殺処分」されてしまうのだ。
どういう基準で「12歳」から「人間」だと認められるのかというと、「代数のような、ある種の高等数学がこなせる能力」が身につくのが、おおよそその年齢であり、その程度の能力があれば「人間」であると認めうる、という理屈なのである。
当然、この「基準」はきわめて恣意的なものであり、決して万人を納得させうるような合理性を持たない。
たとえば、重度の「知的障害者」は、生涯そこまでの能力を持ち得ないかもしれないのだが、では、彼あるいは彼女は、「人間」ではないというのだろうか?
本作では、こうした「知的障害者」の問題は描かれていないが、普通に考えれば、この作品世界では「知的障害者」の人権は認められていないと考えて良いだろう。
現実にも、ナチスドイツにおいては、「知的障害者」は、「ユダヤ人」「同性愛者」「ロマ」などと共に、劣性人間として、「断種」または「抹殺」の対象となったのだが、この作品では、テーマを「堕胎=子供の権利」に搾っているために、そこまでは踏み込んでおらず、ただ、この無茶な「基準」を梃子にして、物語にオチをつけている。
ともあれ、この作品の世界でも、「人間は12歳から」という法的規定は恣意的なものでしかなく、状況によっては、いつ変更されないとも限らないものとして、12歳に達した子たちをも怯えさせている。
12歳に達した今は、親に養育義務があるし、仮に親が養育義務を果たさなくても、「堕胎トラック」に捕まって殺されるということはない。
しかし、「12歳」という基準も、もともと「政治的観点」から引き上げられたものでしかないから、これが再び三度変更される可能性は残されており、「12歳未満」の子供たちは無論、「12歳」に達した子供たちさえ、自立できるようになるまでは、親に見放されないよう、ビクビクしながら生きていかなければならないのである。
周知のとおり、昨年(2022年)6月、アメリカ連邦裁判所は『アメリカで長年、女性の人工妊娠中絶権は合憲だとしてきた1973年の「ロー対ウェイド」判決を覆す判断を示した。この判決を受けて、アメリカでは女性の中絶権が合衆国憲法で保障されなくな』った。
これは、前年まで大統領であったドナルド・トランプが、終身制の最高裁判事について、リベラルな判事の引退に伴い、新たに保守派の判事を据えたために、最高裁においては保守派が優勢になった結果であると、ひとまずそう考えて良いだろう。
当然のことながら、長年認められてきた「女性の権利」を覆す判決には、リベラルを中心に反対運動が行われており、日本においても「堕胎に対する違憲判決」を、おおむね否定的に見ている人が多いはずだ。
だが、トランプが据えた保守派裁判官によってなされた判決だから、当然「間違っている」などと、上の文章を読んだ今でも、あなたは確信を持って、そう言えるだろうか?
たしかに、強姦被害にあった女性に対して、それでも「子供を産め」というのは、酷なことではあろう。
だが、そうした「最悪の事例」であっても、すでに発生している子供(胎児)には「何の罪もない」というのは明白だ。
そして、このように「母体と胎児」の権利が対立した場合に、「母体の方が優先されて、然るべきである」というロジックなど、果たして成立するものだろうか?
いや、「胎児=子供」を「人間」だと認めてしまえば、その権利は「対等」なものにならざるを得ないからこそ、「胎児」を「まだ人間じゃない(未人間)」と「法的に規定」して、誤魔化しているだけではないのか。
たしかにそれなら、「合法」ではあろう。だが、それは「正義」と呼べるものなのであろうか。
それは単に、便宜的な「差別法規」なのではないのか?
よく事例として語られる「強姦被害」の場合でも、「生命優先」を原則とするならば、いささか過酷ではあろうとも、妊娠する前の「適切な処理」を義務化し、妊娠した場合は、出産の義務(堕胎の禁止)が課されて、出産後、その子供は、国家が責任を持って(養子縁組も含めて)育てる、といったやり方だって考えられるのではないか。
無論、強姦されて妊娠した女性は、そうした「法的義務」において、さらに「精神的・肉体的な苦痛」を強いられることになるのだけれども、「生命第一」と考え「生命そのもの(の重さ)」と比較するなら、それも法的な「受忍義務」のうちとすることも、決して不合理とは言えないのではないか。
たとえば、「知的障害のある子供」を産んだ母親が、その後、養育上の「精神的・肉体的な苦痛」を理由に、その子を殺した場合、当然それは「殺人罪」に問われる。
つまり、この場合は、母親の「精神的・肉体的な苦痛」よりも「子供の命」の方が重視されたということなのだが、こうした場合と、「望まぬ子供を出産する母親」の「精神的・肉体的な苦痛」と「もの言えぬ弱者としての胎児」の「命」とを天秤にかけて前者が重いとする「現実」とは、やはり矛盾しているのではないだろうか。
これでも、私たちはまだ「女性の権利としての堕胎」は「正しい」と言えるだろうか?
そう言える人がいるのなら、その「論理的な根拠」を、ぜひ聞かせて欲しい。
そしてそれがもし、納得できるものなのであれば、私は喜んで、堕胎不支持論者から転向し「合法的に胎児を抹殺する」ことだって、しても良い。それは、自らの手を汚すこと、にさえならないからである。
(2023年6月5日)
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