黒澤明監督 『蜘蛛巣城』 : 「予言の自己成就」とは何か。
黒澤明の作品の中では、話題になることの少ない作品のようだが、独特の味わいがある。当たり前に「面白い」というような作品ではなく、その「独特さ」を味わえるかどうかが、評価の分かれ目だろう。
つまり、本作の独特さを、「退屈」「暗い」「話がつまらない」と、「娯楽映画」的に見てしまえば、なるほどいくつも難点のある作品で、こうした指摘は必ずしも間違いではない。
しかし、かなり「シンプルな暗い話(ストーリー)」を、わざわざ「退屈」なまでに「テンポ悪く」演出したにはしたなりの、黒澤の狙いがあったというのもまた事実で、その「退屈で暗い、シンプルなストーリー」が描いたものを楽しめる人がいるというのも、また事実なのだ。
では、どんな人が本作に惹かれるのかといえば、それは「運命的なもの」に、否応なく惹かれる人である。
つまり、心の底から、この世界を「唯物論」的に捉え、物理的な限界はあっても、みずからの意志と力で生き抜こうと、そう考えることのできるような人(完全なリアリスト)は、本作で描かれた「運命論」に縛られた人物が、単なる愚か者にしか見えないだろう。
要は「自己暗示」に脚を取られて、自滅してしまう男の物語だと感じてしまうから、「何をやってるんだろうね、この男は」という印象を持ってしまう。だから、つまらない。
だが、黒澤監督としては、観客に、そういう「醒めた意識」を持たせないため、どごまで成功しているかは別にして、極端に「独特な世界」を描いて見せたのだ。
で、本作に描かれている「極端に独特な世界」とは何かというと、それは「運命の支配する世界=自由意志が無力な世界」であり、その意味で、はっきりと「非現実の世界」なのである。
そんな世界を現出するために、黒澤は本作に、「能」の世界観を持ち込んだ。
ここで言う「能の世界」とは、リアリズムの世界(唯物論的世界)ではなく、得体の知れない「運命(因果)の支配する世界」であり、その象徴が「妖(あやかし)」の存在なのだ。
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周知のとおり、本作はシェイクスピアの『マクベス』の翻案作品である。要は『マクベス』の物語を「日本の戦国時代」に移した作品で、ほとんど「そのまま」と言っても良いほどの内容(ストーリー)だ。
黒澤の『七人の侍』の翻案たるアメリカ映画『西部の七人』よりも、ずっと「原案(原作)」に近いと言っても過言ではない作品である。
例えば、こんな具合だ。
つまり、『マクベス』の「荒野の三人の魔女」が『蜘蛛巣城』では「蜘蛛手の森の奇妙な老婆(妖)」となり、「マクベスとバンクォー」が「鷲津武時(三船敏郎)と三木義明(千秋実)」ということになる。
要は、主人公である「マクベス」や「鷲津武時」が、権力欲に憑かれた夫人の唆しもあって、「超常的な存在(魔女や妖)」の語った「予言」どおりの行動を採ってしまい、最後は自滅する、という物語である。
したがって、本作を説得的な作品にするためには「運命」というものが機能している「非現実の世界」を、もっともらしく構築する必要がある。
現実には(唯物論的には)「運命」などというものは「気の迷い」でしかないのだが、「もしかして、そんなこともあるかもしれない」という世界を、説得的に描けるか否かが、本作が成功するか否かの分かれ目なのだ。
で、そういう「特殊な世界」を現出させるために、黒澤監督は「能」の世界観を本作に取り入れた。これは、西欧における「神」に代わるものだと言えるだろう。
西欧では、キリスト教的な「神」が「世界を統べている」という感覚が強い。良い行いも悪い行いも「神様」がぜんぶ見ていらして、その行動に相応の賞罰を与える、という「厳格に論理的な世界観」である。
ところが「八百万の神」の世界である我が国においては、そういう「統一的世界意識」が乏しいから、「神様」を出しぬけるという感覚がどこかにある。なにしろ神様はたくさんいるのだから、その時々に適切な神様を「選ぶ」ということで、「人間の意志」を実現することができるというような感覚があるのだ。
その点、「唯一神=絶対神」であるキリスト教圏の方が、シンプルに「因果応報」な世界観なのである。
そんなわけで、日本では弱い「因果応報」の世界観に説得力を持たせるために、黒澤監督は「能」の世界観を本作に持ち込んで、日本的な散文性という弱点を補強しようとした。「どんなに理性で抵抗しようとしても、天命(運命)からは逃れられない(人間は弱い存在である)」という世界観だ。
だから、マクベスにあたる本作『蜘蛛巣城』の主人公である鷲津武時は、当初、妖の「予言」を馬鹿馬鹿しいと考え、一緒にそれを聞いた親友の三木義明とともに「笑い話」にするし、自身、主君に忠実な侍であろうとする。主君の信頼に応えることのできる「侍」であると自負し、また、そういうものでありたいと思っているのだ。
ところが、武時からその話を聞かされた、マクベス夫人にあたる武時の妻「浅茅」(山田五十鈴)は、その「予言」を信じようとする。なぜなら、彼女には「権力欲」があって、武時がいち武将に終わるのを良しとせず、一国一城の主になることを望んでいたからである。
そして、そうした願望に促された浅茅は、武時とはもともと仲の良かった三木義明が、武時と裏切るのではないかと言って、武時の「不安」を煽る。
三木義明が、妖から聞いた話を、主君・都築国春にすれば、国春は武時の存在に不安を覚えて、武時を遠ざけようとするに違いない。また、そうすることで三木義明は、主君への忠誠を示して、権力の座に近づくこともできると、浅茅は、こう武時に吹き込んで不安を煽るのだ。
武時も当初は、三木がそんなことをするはずがないし、自分も主君を裏切る気などないと言って、浅茅の言葉に抵抗するのだが、しかし浅茅は「親が子を殺し、子が親を殺すのというのが、戦国の世の習いではないか。どうして、友が裏切らないと言えよう。いや、むしろそうした裏切りのできる者こそが生き残れるのであり、それこそがこの乱世の生き方として正しいのだ。現に、今の主君・都築国春も、主君の首を取ることで、一国一城の主人になれたではないか」と武時を追い詰めていく。
これに対し武時は「いや、前の主君が酷い人間であったからこそ、御城主様は己が主人を誅殺したのだ」と言って、浅茅の言葉に抵抗してみせるのだが、その言葉はすでに力弱いものとなっており、ほとんど浅茅に説得されてしまっている。なにしろ、浅茅の言う「親が子を殺し、子が親を殺すのというのが、戦国の世の習いではないか」というのは、まったくその通りであったからだ。
このようにして、武時はどんどん「疑心暗鬼」を深めていった結果、ついには、主君を弑殺し、親友であったはずの三木義明とその嫡男まで謀殺して、「妖の予言」どおりに「蜘蛛巣城の主人」になりおおせてしまう。
ところが、「妖の予言」を受け入れてしまうということは、要は「運命論」的な「因果応報」の世界観を受け入れてしまうということだから、主君を殺し、親友を殺した武時は、おのずと「自分の人生」もまた、自分の力と意志だけでは切り開け得ないものだと感じられるようになってしまう。
所詮、自分も「運命の操り人形にすぎない」と感じてしまうから、まだ隠された「この先の運命」を思うと、恐ろしくて仕方がない。なにしろ自分は、主君や親友を殺した人間なのだから、「因果応報」で、ろくな死に方ができないのではないかという「不安」に、おのずと捕らわれざるを得ないのだ。
そして、結局は、事実そのとおりになってしまう。
浅茅は、自身の「血に汚れた手」という妄想にとらわれて発狂してしまうし、武時の方も、臣下の叛逆にあって非業の死を遂げることになるのである。
で、こういうのを、心理学では「予言の自己成就」と言う。
どういうことかと言うと、人というものは、「予言」なんていう「非合理的なもの」を信じていないつもりであっても、それを耳にしてしまうと、ついその言葉に縛られた行動を採ってしまい、結果として、予言されたこととそっくりな現実を招き寄せてしまう、というようなことだ。
つまり、平たく言ってしまえば、「予言」などというものは「あり得ないこと」なのだが、その人が、その言葉を「過剰に意識してしまう」ために、結果として、予言された状況を「自ら招き寄せてしまった」り、予言が成就されたと「思い込んでしまった」りするといったことだ。
繰り返すが、当然のことながら、多くの人は、「予言なんてあり得ない」と思っている。
しかし、だからこそ、予言の「当たらなかった場合」は「当然の結果」なのだから、特に気には止めないし、すぐに忘れてしまう。「今日のあなたの運勢は悪い」と言われても、さして気にしない人は、その予言が当たろうが外れようが、すぐに忘れてしまう。
だが、多くの人は、予言が外れた時には「やっぱりなあ。あんなもの迷信だよ」とホッとして、すぐに忘れてしまうのだけれど、それがたまたま当たった時には、それを印象深く記憶してしまう。「あり得ないはずのことが起こった」と、そう思うからである。
まして、その予言を気にして、行動を慎んでしまうような人だと、たまたまその予言が当たってしまったりすると、「予言を外そうとあれこれしたのに、当たってしまった。予言の拘束力とは、なんと強いのだろう」という強い「印象」を、意識的あるいは無意識に心に刻み込んでしまい、それからは、そうした「予言の成就」的なものばかりが目について仕方がない、ということにもなるのである。
つまり、現実には(客観的には)「予言の成就」なんてことはあり得ないのだが、主観的には、それは、いくらでもあり得ることなのだ。「そう感じてしまう(そう理解してしまう)」という「錯誤」は、人間の心理には、むしろ「ツキモノ」なのだ。
だから、本作『蜘蛛巣城』が描くのも、そうした「心理的な世界」であって、唯物論的な世界ではない。言うなれば「強迫神経症的な世界」なのである。
それは、浅茅が、ありもしない手の血穢を、執拗に洗い流そうとする姿に、典型的に示されていよう。
つまり、「強迫神経症」的な「妄想」というのは、現実には存在しないものなのだが、心の中に「妄想」が存在しているというのは、否定できない事実なのだ。
そして本作が描くのは、そんな人間の「心の闇」であり、「心の弱い部分」なのである。
例えば、私がここで「本作を観て、あなたは、この程度のことも分からなかったのか」と言えば、多くの人は「なにを!」と反発を覚えることだろう。それが人間心理というものである。
実際のところ、そんなふうに言われて反発するのは、この程度のことが理解できなかった人である。
理解できていた人は「私のことではないな」と考えるから、感情を乱すことも反発することもなく、私の「挑発的な言葉」をスルーしてお終い。
ではどうして私は、わざわざそんな反発を招くようなことを言うのかと言えば、それは私の言葉を、多くの人に刷り込んで、コントロールするためである。
通り一遍の理解で満足せず、物事をよく考えなければならない、今のままでは馬鹿にされるぞと、そういう強迫観念を持たせて、少しでも頭を使う人を増やそうというのが、私の「狙い」なのだ。
言い換えれば、「本作を観て、あなたは、この程度のことも分からなかったのか」という言葉は、「今日のあなたの運勢は最悪です。だから、行動はくれぐれも慎重に」という「予言」と同じ、「心理学的な呪い」なのだ。
その人が、その言葉を肯定しようと否定して反発しようと、人というのは「言葉」に影響を受けざるを得ない。
特に、反発・否定の場合は、より強く影響を受けているわけだから、表面的にその言葉に従うか反抗するかは別にして、いずれにしろ、その言葉に強く縛られざるを得ない。
「ああしなさい、こうしなさい」と言わなくても、「あなたはこうする」とか「しない」といった「予言」的な言葉は、相手の行動に影響を与える力能を現に持っており、すべての人間は、そうした「言葉の呪い」に縛られざるを得ないのだ。
だから、「本作が描いたもの」、と言うよりは、シャイクスピアが『マクベス』で描いたものとは、そんな「人間の弱さや愚かしさ」という「リアル」であって、決して「不思議な話」ではないのだ。そこに描かれているのは、私たちの「内面のリアル」なのだ。
上手く描けてさえいれば、それは「恐ろしい事実」なのである。
「魔女」や「妖」が恐ろしいのではなく、「言葉」によって木偶人形のように操られてしまう「主体性=私」の無さ、「自分にはある」と思い込んでいる「私の意志」の不確かさを突きつけられて、私たちはそれに慄然とするのだ。
したがって、本作が、観客をどこまで「慄然とさせ得たか」こそが、作品の出来をしめす指標だと言うことができよう。けれどもその一方で、それは観客個々の「自己認識」にも深く関わることである。
つまり、「私は他人の言葉などに影響されない、強固な意志を持っている」と思っている人には、本作は「何やら思わせぶりなだけで、結局のところ主人公の武時は、意志薄弱な愚かな男」ということにしかならない。
だが、実際のところ、私たちの中には武時のような「弱さ」が、確実に存在している。
だから、私たちは、武時を「馬鹿な男」だと嗤うのではなく、「私たち自身が、しばしば武時である」と気づいて、その「意志薄弱さ」を自戒しなくてはならないのだ。
例えば、詐欺被害に遭う人の少ない部分が「自分だけは、騙されない」という「自己過信」に捕らわれているように、無闇に自信のある人(例えば、勉強もしないのに、自分は賢いと思っている人など)ほど、じつは「言葉」の影響を受けやすい。ただ、その自覚がないだけなのだ。
しばしば本作は、武時が多くの矢を射かけられて殺される、最期のシーンの「迫力」だけが話題になりがちだ。
だが、あれだって「運命」に捕らわれてしまった人間の、「強迫的な心理」を象徴する、比喩表現だと理解できないわけではない(自分に向かって突き刺さる矢が、悪意や敵意ある視線の象徴)。
つまり「世間が(世界が)私に敵意を向けており、私は孤立無援である」という意識の表現だ。
例えば、「自殺」する人というのは、おおむねそのような意識(誰も私を助けてくれない。私は孤立無援である)にとらわれがちなのだが、これもある意味では「予言の成就」的なものなのではないだろうか。
「私は、きっと死ぬ(死ぬしかない)」という、「呪いの言葉」としての「予言」の、自己成就である。
武時にしろ、浅茅にしろ、そんな「予言の言葉」を自分の中に抱えていたから、事実そうなったのだ。
「私は酷いことをした。だから、ろくな死に方はできないだろう」という、自己予言である。
(2024年1月30日)
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