奥泉光 『東京自叙伝』 : 東京から日本全土に拡散した「地霊の呪い」
書評:奥泉光『東京自叙伝』(集英社文庫)
私が偏愛する作家の一人、奥泉光が2014年に刊行して話題作となり、同年の「谷崎潤一郎賞受賞」を受賞した作品『東京自叙伝』である。
私が奥泉に惚れ込んだのは、第2著作で第1長編となる『葦と百合』(1991年)を、刊行後しばらくした時期にたまたま読んで、すっかりその「異様な世界」にハマったせいだ。
『葦と百合』が、どういう作品だったかというと、言うなれば、中井英夫『虚無への供物』や竹本健治『匣の中の失楽』に連なるような「幻想ミステリ」。いわゆる「アンチ・ミステリ」である。
こんな反時代的な作品が、1990年代になって読めるとは思っていなかった私は、まさしく狂喜乱舞して、すでに刊行されていた短編集『滝』と『蛇を殺す夜』も続けざまに読んだ。いずれの収録作も、「幻想ミステリ」でもなければ、当然、長編でもなかったため、『葦と百合』に比べれば物足りなさはあったものの、それでも、その独特の「不穏な世界にひきずりこむ」感じに満足させられた。
当時、奥泉は、純文学系作家として各種の文学賞の候補となっていた期待の若手、というような立ち位置だったのだが、意外にその作風は、エンタメ的な物語性も兼ね備えている、ちょっと異色な若手純文学作家だったといえよう。
ともあれ、『葦と百合』『滝』『蛇を殺す夜』と読んで、すっかり奥泉ファンになった私は、奥泉の新刊が出れば飛びつくようにして購読したわけだが、出る本出る本すべてが面白いというわけにはいかなかった。
奥泉光の「小説」著作は、次のようになる。現時点で未読作には「⚫︎」印を付した。
奥泉の読者であればお分かりいただけようが、もちろん例外はあるものの、結局のところ私の好みは『葦と百合』系の作品に偏っており、それ以外の方向性の作品には、あまり感心できない。
(1〜4)までは、好みどおりで満足した。しかし、芥川賞受賞作である(5)の『石の来歴』は、奥泉の重要モチーフとなる「戦争もの」の幻想小説なのだが、少々食い足りない感じが残った。
だが、初めてハッキリと「面白くない」と感じたのは(6)の『バナールな現象』であった。奥泉の書くものでも、合わないものがあるのだと、この作品で初めて気づかされたのである。
それでも、奥泉と同様に、私も夏目漱石ファンなので、漱石のパスティーシュで、ミステリ作品だという触れ込みの(7)『「吾輩は猫である」殺人事件』には期待したが、まったく漱石にパスティーシュになっているとは思えず、これもぜんぜん楽しめなかった。
次の(8)『プラトン学園』は、内容紹介文から『バナールな現象』が連想されたので、買いはしたが、結局いまだに読んではいない。
このあたりでそろそろ奥泉を見かぎりかけていたのだが、次の(9)『グランド・ミステリー』は、幻想ミステリの大作だというので、ミステリファンであり『葦と百合』ファンとしては無視できず、いささか及び腰ながら読んでみると、これはひさびさに私好みの作品であった。
『葦と百合』や『ノヴァーリスの引用』ほどではないけれども、その系列の作品として、十分に楽しめたし「まだ、奥泉は書ける」と嬉しく思ったものである。
(10)は、内容紹介によると『葦と百合』系ではなさそうだったので避けた。
(11)は、(7)の『「吾輩は猫である」殺人事件』を思わせたので、こちらも避けた。
もう奥泉光は『葦と百合』系の作品だけ読めばいいと、そう考えるようになっていたのだ。
(12)は、「戦争小説」だったが、いわゆる「9・11アメリカ同時多発テロ」(2001年)の後ということで、「戦争」テーマに興味を持っていたし、比較的薄めの長編だったので読んでみると、これは『石の来歴』系の「戦争もの幻想小説」で、『石の来歴』よりも、むしろ面白く満足できる作品であった。
(13)は、ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』のパスティーシュで、「SF冒険活劇もの」のようだったので避けた。
(14)は、「クワコー」シリーズとなる「ユーモアミステリ」短編集の1冊目だが、「ユーモア・ミステリ」には興味がないので、(17)(19)(25)と刊行されるが、4冊とも読んでいない。
(15)の『神器 軍艦「橿原」殺人事件』は、上下巻の「戦争ものミステリ」ということで読んだが、『葦と百合』系の、「異様な世界」を描き出す幻想小説として、大いに楽しめた。
(16)は、ミステリ作品だが、『葦と百合』系ではなさそうだったので避けた。
(17)は、前記のとおりで、「クワコー」シリーズの2冊目。
(18)は、単行本未収録の「初期短編集」だったはずで、期待して読んだが、期待はずれの凡作だった。やはり、未収録には未収録なりの理由があったということなのかもしれない。
(19)は、「クワコー」シリーズの3冊目。
(20)は、「音楽ミステリー」というような触れ込みで、(16)の『シューマンの指』系の作品かとも思われた。私は「音楽」には興味がないので、こちらも避けた。
(21)は、「戯曲三部作」ということだったと思うが、「戯曲」にはあまり興味がないので、コレクション的に買いはしたが、読んではいない。
そして、本書(22)の『東京自叙伝』。内容的には『葦と百合』系の作品でも「戦争もの」でもなく、私の興味からが外れていたものの、刊行当時、大変評判もよく、実績の認められた純文学作家に与えられる「谷崎潤一郎賞」を受賞したので、「奥泉もそんな立場になったか」という感慨があった。
しかし、「谷崎潤一郎賞」受賞作が、その作家の「代表作」とまでは言えないのを知っていたので、購入はしたし、気にはなっていたものの、今日まで読む機会を逸してきた。
そんなわけで、しばらく奥泉光の新作から遠ざかっていたのだが、どういうきっかけだったか(大森望が褒めていたのかもしれないが)、(10)の旧作『鳥類学者のファンタジア』を面白いと褒めているレビューを読んで、「この人がそこまで言うのなら」と読んでみると、『葦と百合』系の「ダークな幻想ミステリ」ではなく、「軽やかな幻想SF」といった作品で、これが思いのほか面白かった。それで、この系列の作品なら読んでもいいな、と思いなおすことになった。
それで読んだのが、(10)『鳥類学者のファンタジア』の続編である、(23)の『ビビビ・ビ・バップ』である。
だが、こちらは『鳥類学者のファンタジア』ほど面白くはなかった。
(24)の『雪の階』も、刊行当時「三島由紀夫を彷彿とさせる」ということで、かなり評判になった作品なので読んでみた。
これも『葦と百合』系の作品ではなかったが、わりと好感の持てる作品で、レビューも書いた。
(25)は、「クワコー」シリーズの4冊目。
(26)の『死神の棋譜』は、「幻想ミステリ」というので読んだのだが、『葦と百合』系の作品で、大いに楽しめた。
もちろん、私の「好み」のパターンであるということが大きいのだが、しかし、このパターンで書くと、今でも「濃厚な味わい」の出せるところが大したものだと、あらためて感心した。初期には「濃厚な作品」を書いていた作家も、普通は加齢とともに「枯れてくる」あるいは「薄味になる」ものだからだ。
この『葦と百合』系の「幻想ミステリ」の特徴は、現実的な世界から徐々に「暗い歪んだ世界」に入り込んでいくというパターンであり、ハッキリした結末がつかない、という点にあるだろう。だから、「期待はずれ」と思う人や「また、このパターンか」と思う人も当然いるわけだが、私にはそれが弱点とは感じられないほど、奥泉のこのパターンの作品が、肌に合っていたのである。
そんなわけで、『死神の棋譜』も、下のとおりレビューを書いた。
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以上、私の「奥泉光」歴を概括したわけだが、見てのとおりで、私は、奥泉作品の中で「読みたいもの」については、すでにたいがい読んでおり、思い残していたのは『東京自叙伝』だけだといっても良いだろう。
本当は、『死神の棋譜』に続いて、『葦と百合』系の「幻想ミステリ」を書いて欲しいところなのだが、こちらは読者を選んで、あまり一般ウケする作品ではないみたいなので、当面、そっちの新作の登場は期待できない。それで今回、退職して多少は時間的余裕もできたことから、「宿題」だった『東京自叙伝』を読むことにしたのである。
『葦と百合』系の「幻想ミステリ」ほど期待してはいないが、それなりに楽しませてくれるのではないかと思っていたのである。
で、結論からいうと、それなりに楽しく読ませてもらった。私の好みのパターンではないとしても、十分に楽しませてもらえたのである。
ただし、この作品の面白さは、『葦と百合』系の作品のような「異様な世界」描写にあるのではなく、その「批評性」にあると断じて良いだろう。その点で、知的に楽しめる作品なのである。
本作が、どういう内容の作品なのかは、Amazonのカスタマーレビューで、レビュアー「ロンダルキアでつかまえて」氏が、レビュー「奥泉光、堂々の新境地。」で、要領よくまとめているので、それをそのまま引用させてもらおう。
つまり、本作は「日本の近現代史」を「地霊」の語りという形式で描いて見せた、一種の「歴史幻想小説」とでも呼ぶべきものだ。
「地霊」の憑いた人物が「生まれ変わる」のではなく、「地霊」が、その人物のいちばん輝いた時期、言い換えれば「時代を反映して活躍をした時期」にとり憑いており、その時期が過ぎると、次の時代を象徴する人物にのりうつっていくというパターンで、「日本の近現代史」が「一人称で、体験的に語られる」という趣向である。
本作は、2014年の作品で、本書に描かれる最後の大きな事件は「東日本大震災における福島第一原発事故」だ。
その後は、そこへと至った「東京の精神史(精神誌)」としての「地霊」が、日本全土へと拡散していく。もはや「東京の地霊」は「東京の地霊」の止まらず、「日本の地霊」へと拡散していって、「日本人の精神性」を象徴するものとなったのである。
ただし、この「東京の精神史」であり「日本人の精神史」は、当然のことながら、きわめて否定的なものである。つまり、「地霊」に憑かれたメインの語り手の6人が、多かれ少なかれ「無責任かつ嫌な奴」なのだ。
それなりに「有能」だからこそ、活躍することもあるのだが、それが「日本」や「日本人」を良き方向に導くことはなく、あれこれもっともらしい理屈をこねはするものの、最後は「そんなものさ」と無責任に投げ出してしまう、度し難い「軽薄さ」を持っている。
レビュアー「ロンダルキアでつかまえて」氏が『ヴォネガットの『ガラパゴスの箱船』を彷彿させる』と書いているのは、この6人の主人公に通底する、「精神のあり方」としての「なるようにしかならない」という、無責任な態度のことであろう。
ただ、カート・ヴォネガットのそれ、「世の中、そういうものだ」という「諦観」は、決して本作で描かれる「6人」のそれような「無責任」なものではない、ということは言っておかなければならないだろう。
私は『ガラパゴスの箱船』自体は未読なので、その点で確たることはいえないものの、代表作である『スローターハウス5』や『タイタンの妖女』を読んだだけでも、ヴォネガットの「理想主義者ゆえの、痛々しい諦観」という個性はハッキリと窺え、本作『東京自叙伝』で否定的に描かれる「6人」の精神とは、真逆に対応する「なるようにしかならない」だというのは、明らかなのである(言うなれば、被害者のそれと加害者のそれ)。
カート・ヴォネガットの場合は、理想主義者ゆえの、その反動としての「深い諦観」が作家的特徴だと言えるのだが、本作『東京自叙伝』における奥泉の場合は、もっとわかりやすい、「怒り=苛立ち」の発露である。まだ、怒りを感じて批判する気になるだけの「日本人への期待」を残しているそれだ、とも言えるだろう。
そうした「批評性」において書かれたのが、本作なのである。
つまり、奥泉光もまた「福島第一原発事故」に象徴される「日本人の度し難さ」に、いわく言い難い「怒り」を感じ、その「なんで日本人というのは、いつでもこうなんだ」という感情を、「物語」化して解析してみせたのが本作なのだ。
だから、あの原発事故に「日本人性への、怒りと絶望」を感じた人なら、本作に共感することができるはずだ。
だが、その奥泉光自身が、今でも同じ「日本人性への怒り」としての「一縷の期待」を持ち続けているのかどうかは、いささか疑問である。
なぜなら、本書刊行から既に10年弱が経っているけれども、その間の平成24年(2012年)12月26日から令和2年(2020年)9月16日までという、じつに8年の長きにわたる「安倍晋三政権」という「日本地霊政権」による「無責任政治」を、いやと言うほど味わさられのだから、すでに奥泉が「日本的な精神」に愛想を尽かしていても、なんら不思議はないからである。
しかしながら、沖縄や北海道は別にして、もはや日本全土に拡散した「日本的な精神」は、安倍晋三の死によって終わるほど、柔なものではない。
特にそのことを、今更のごとく思い知らされているのは、他でもない、大阪在住の私である。
現在の大阪は、橋下徹・松井一郎・吉村洋文へと引き継がれてきた「日本的地霊政党」の主導により、来年の「大阪万博」とその後に控える「大阪夢洲カジノ」に向かって、ひた走っている。
それはまるで、海へと続く断崖を目指して突っ走るレミングの群れのようだ。しかもこちらは、「迷信だった」では済まされない。
もちろん、これが大阪に止まる話なのであれば良いのだが、「地霊」はすでに「日本の地霊」なのだから、日本全国つれもって走ることになるのではないかと、それが大いに危惧されている。
しかもいまや、大阪の「地霊」は、ずぶずぶと沈みゆく「ゴミによる埋立地」に宿っているのである。
(2024年1月12日)
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