平山瑞穂 『近くて遠いままの国 極私的日韓関係史』 : 絶壁に爪を立てよ!
書評:平山瑞穂『近くて遠いままの国 極私的日韓関係史』(論創社)
平山瑞穂は、私の偏愛する作家である。
どのあたりが好きなのかといえば、それは彼の「幻想小説作家」としての側面だと、そう言い切っても良いだろう。
平山は「日本ファンタジー大賞(現・日本ファンタジーノベル大賞)」の受賞者なのだから、これはごく自然なことだと思う。
しかし、そんな平山が『近くて遠いままの国 極私的日韓関係史』と題する本を刊行したのだから、平山ファンの多くが「おやっ?」と思ったのは、ほぼ間違いのないところだろう。私も、そう思った。
そして「もしかすると、平山は在日(朝鮮・韓国人)なのかな?」と思った人もいるはずだ。私もだ。
私は、ずっと大阪在住だから、幼い頃から周囲には、それと気づきはしなかったものの、少なからぬ「在日」の人がいた。
小学生の頃、クラスのガキ大将でいじめっ子だった高山くんが「在日だった」という話を、のちに耳にして驚いた。日本人だと思い込んでいたからなのだが、中学生になった頃に「高山が民族服を着て、朝鮮戦学校に通っているのを見た」というような噂話を耳にして、今ではその姿を自分の目で見たような、脳内イメージが出来上がってさえいる。
また、今はもう辞めてしまったが、私が小学校の高学年の頃、家族四人で創価学会に入会した。その地域組織である男子部の大B(ブロック)長だったか、支部長だかをやっていて、私もお世話になった安田さん(ご夫婦)が「在日二世」だというのも、後から気づいた。
安田さんが隠していたというわけではなく、そんなことわざわざ話題にしなかっただけだし、私も気にしてはいなかった。安田さんの御宅で男子部の会合が週一くらいで行われていたのだが、その際に私は、民族衣装をまとった人形などが飾られているのをいつも目にしていたので、ある程度「在日」というものの存在を知ったのちに、あの「天女の羽衣みたいな衣装」の意味を知ったのだ。
もちろん、地域でも学校でも「在日」の人は少なくなかったのだろうが、たいがいは「通名(日本名)」なので、気づかなかったのであり、それで何も不都合はなかった。
だから、あとでそれを知っても、「ふ〜ん、○○さんは、在日朝鮮人だったのか」と思うだけで、だからどうだということは、こと私に限ってはなかった。
私の基準は、今も昔も、その個々の対象が「好きか嫌いか」であり、「ジャンル」は関係ないからである。
それでも、警察官になった頃は、「在日」に対して、一定の興味を持たないではいられなかった。なぜなら、共産主義国家である「北朝鮮」は警察の視察対象であり、その日本における民間団体である「朝鮮総連」も視察対象になっていたし、それと対抗していた韓国の、日本における民間団体である「民団」もまた視察対象に含まれていたからである。
今では「在日」については、「北のスパイ」が疑われるくらいの人でないと問題にはされないし、それは共産主義国家ということだからで、その意味では、「ロシア」や「中国」と何も変わりはない。
むしろ、近年では、東南アジアから流入した人たちによる、わかりやすい犯罪の方がクローズアップされてきたから、「(警備警察)思想警察」的な興味は、昔に比べれば薄れてきているように思う。
これは、「共産国」と「左翼」ばかりを目の敵にしてきた結果、「オウム真理教事件」をまったく防げなかったことによる反省もあるのだろう。
ソ連が崩壊して、ただでさえ「警備警察の縮小」が語られていたところに「オウム真理教事件」があったから、「警備警察」存続のためには、敵としての「共産主義国と国内左翼」ばかりを言挙げしているわけにはいかなくなり、しかも「南朝鮮(韓国)」は民主化されて、今は「中国」の方がよほど気にかけなければならない存在になってきた、というようなことなのだろう。
だが、私としては、私的な部分で「創価学会員」として「在日」の人との付き合いがあり、彼らが「日本人」と何も変わらないというのを実感として知っていたから、警察官がしばしば「南北朝鮮人」を(「不逞外国人」的に)敵視しがちだった頃には、それを「イデオロギー」的な(人間を見ない)偏見として、冷めた目で見ていたのである。
そんなわけで、もともと「在日」というものに、さほど興味のなかった私なのだが、そこに注目するようになったのは、在特会(在日特権を許さない市民の会)による「京都朝鮮人学校襲撃事件」(2009年)の動画を視たことがきっかけだった。
それを視た私は、怒りに打ち震えるような気分で、即座に自分の電子掲示板「アレクセイの花園」に「日本の恥だ」として、在特会を強く非難する文章を書き、今に続く私とネトウヨの関係は、この時から始まったのである。
しかし、この時の私の反応も、その重点は「日本の恥」というところあって、必ずしも「朝鮮人の人が可哀想だ」というところにはなかったように思う。
もちろん、差別され侮蔑されて可哀想だという気持ちはあったが、それは「朝鮮人(在日)」という小さな括りではなく、「部落差別」などの問題を含めた、大きな意味での「被差別者」全体に対する感情であったし、また、それ以上に、私の感情は「差別者への怒り」として、大きく発動したのである。
そして、これはたぶん、私の中での「差別」の問題は、「在日」差別問題以前に、「部落差別」や「障害者差別」の問題があったからであろう。
こちらの経緯まで説明しだすと長くなりすぎるので、ここまでにしておくが、要は、私にとって「朝鮮人」であることは、特別問題になるようなことではなかったということだ。
それは、私にとっての彼らは「日本に住んでいる外国人」というだけの話であり、その意味では、在日アメリカ人やフランス人、あるいは白人や黒人と同じ。生まれや国籍が違い、肌の色が違ってたりするだけで、所詮は「同じ人間に過ぎない」という感じだった。
この当時、私はまだ「日本の近代史」に無知であったから、差別意識も無かったかわりに、日本人としての「戦争責任」についての負い目もなかったのである。
そんなわけで「平山瑞穂は、在日なのかも知れない。だから、先年刊行した長編小説『さもなくば黙れ』(2021年)のような、明らかに在特会などの存在を踏まえた、反差別的な近未来小説を書き、今回もまた、このような本を出したのでないか?」と思いながら、本書を読み進めていった。
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本書は、「論創ノンフィクション」というレーベルから刊行されているものの、まるまる一冊「ノンフィクション」というわけではない。
100頁ほどの中編小説「絶壁」と、200頁弱の長編エッセイ「近くて遠いままの国 極私的日韓関係史」の2本をまとめた、「日本と韓国」の問題をテーマとした、いささか変則的な本となっている。
こうしたかたちになったのは、著者の平山自身が書いているとおりで、ヘイトデモの下劣さに触発されて「絶壁」を書こうと思ったのだが、エンタメ作家として、著作の売れ行き不振とその出版刊行の困難に直面していたため、自分が本来目指していた「純文学」での再デビューを意図して、純文学誌向けの「中編」という長さで、この作品をまとめた。
ところが、その目論見がはずれ、エンタメ小説としては中途半端な長さであったから、発表・刊行の時期を逸してきた。一一と、おおよそこういう事情であった。
だが、先年、本書と同じ版元「論創社」から『さもなくば黙れ』を刊行し、同出版社には「論創ノンフィクション」があることに気づき、それなら「絶壁」に同テーマの長編エッセイを書き下ろして抱き合わせにすることで、単行本として刊行することも可能なのではないかと打診したところ、その目論見がうまくいった、というわけである。
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さて、それでは、本書収録作の2本について、個々に見ていこう。
まず、小説「絶壁」だ。
この作品は、わかりやすく言えば、「恋愛小説」である。ただし、そこに「日韓問題」が絡んでくる。
主人公の中年男性「隼(しゅん)」が、飲み屋のアルバイトとして働いている若い女性「怜花(れいか)」と、ひょんことから知り合い、同居するようになり、やがて二人は相思相愛の仲になる。
隼は、おばあちゃん子であったため、老人に対してとても優しい好青年であったが、しかし「在日」に対する根深い偏見を持っており、(明らかに在特会をモデルにした)反在日市民団体にも所属して、ヘイトデモにも参加する活動メンバーであった。
こう書けば、物語の造りとして「怜花」が在日であろうというのは、容易に推測できるだろう。
ともあれ、知り合ったしばらくは、怜花は、隼がそのような思想の持ち主だとは知らなかった。隼が、そうした運動に関わっていることを、怜花に話さなかったからで、怜花は「老人に優しい隼」が好きになり、相思相愛の関係になってしまっていたのである。
で、なぜ隼が怜花にそのことを話さなかったのかというと、これはよくあることだが、家族や友人あるいは恋人であってさえ、政治や宗教やイデオロギーの問題では折り合えないことなどよくある話だというのを、隼がよく承知していたからである。
だから、ことさら今すぐ話す必要もないし、折を見て話そうと思っているうちに、先に怜花の方が、そのことに勘づいて、二人の関係は徐々にギクシャクしたものになっていった。
怜花としては、隼がそんなことをしているとは思いもよらなかったし、すでに好きになってしまっているから、そのことだけで関係を断とうとは思えず、ずるずると同棲を続けたのだが、ある時、隼の方が怜花が「在日」であることを知ってしまい、激昂して、「俺を騙したんだな!」と怜花を糾弾し、その結果、怜花が出ていってしまう。
無論、つい激昂してしまったとはいうものの、怜花を愛しているというのも事実だから、隼は怜花への未練を断ち切れず、さりとて「在日への偏見」も捨てられない中途半端な気持ちのまま、怜花の実家へと会いにいくのだが……。一一というような、お話である。
つまり、「テーマとジャンルと人物名」を見れば、結末に至るまでの展開は、おおよそ予測できてしまうタイプの物語であり、言い換えれば、本作の見所は「偏見の壁=絶壁」をいかにして乗り越えるか、ということになるのだが、結論をバラしてしまえば、隼は、この絶壁が乗り越えられず、怜花を失ってしまう。
たしかに、隼が反省して、怜花との仲が修復されて「めでたしめでたし」というのでは、あまりにも陳腐だろう。
だが、さりとて「やっぱり、そう簡単には、偏見の壁は乗り越えられませんでした」というだけでは、言うなれば「当たり前の話」でしかなく、その点で本作は、読者のモヤモヤ感が解消されず、「何かが足りない作品」とならざるを得なかったのである。
まあ「偏見の壁」が乗り越えられなかったというのは仕方ないとしても、問題なのは「心優しい隼と、偏見に凝り固まった隼」という「矛盾(同居)」を、どう理解すればいいのかという問題が、本作では、何のアプローチもなされないまま、放置されて終わっているという点だろう。
無論、人間というのは「矛盾」に満ちた存在であり、「普段は優しい人なのに、ある問題に関しては、目がつり上がって、人格が豹変してしまう」なんてことは「よくあること」である。
しかし、このような設定で、このような小説を書くのであれば、やはりこの問題を「世間にはよくあること」で済ませることなく、「なぜ、そうなってしまうのか?」という点について、深く「人間心理を掘り下げるべき」であった。
そこが無いからこそ、本作は「純文学」としては、まったく物足りないし、さらには「ハッピーエンド」でもなければ「泣けるラスト」でもないから、「エンタメ小説」としても失格ということになってしまうのである。
つまり、本作「絶壁」は、「純文学」としても「エンタメ小説」としても、「中途半端な作品」にしかなっていなかったのだ。
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では、長編エッセイ「近くて遠いままの国 極私的日韓関係史」の方は、どうであったか?
こちらは、単純に興味深く、その意味でおもしろく読むことができた。
サブタイトルにもあるとおりで、著者・平山瑞穂の「日韓関係・個人史」とでもいうような内容だ。
このエッセイの冒頭で、平山は、自分がこのような本を書くと「平山は、在日ではないのか?」と考える人もいるだろうが、そうではないと、きっぱりと断っている。
もちろん、これは、「在日と間違えられるのが嫌だ」ということではなく、自分の「一人の日本人としての、在日に対する思い」が、「在日だから、在日を擁護するのだろう」などという「偏見」を持って読まれ、誤って評価されるのが嫌だったからである。
面白いのは、この「きっぱりとした物言い」である。
つまり、世間によくあるように、「誤解されては困るのだが」といったような「言い訳がましい」言い回しを、平山が採用していない点だ。
このあたりの感覚が、私と平山はとても似ていると思う。だから、平山の『民族的バイアスがかかっていない目から見ても、おかしいことはおかしい。僕が言いたいのはそういうこと』なのだから、「在日」だと誤認されるのは困るのだという(「感情的」ではなく)「実務的」な物言いが、私には、ことのほか説得力を持って共感できた。
要は「生まれや国籍など、所詮は後付けの政治的区分(共同幻想)」でしかないのだから、そんなものにこだわるのは(表層的な制度に惑わされる)「阿呆だ」という感覚において、私と平山は、徹底した「リアリスト」なのである。
だが、だからこそ、そんな平山が、どうしてあのような「優れた幻想小説」を書けるのかという点に、私は興味を持つし、そんな「一見矛盾した」かのような平山なら、もしかして、小説「絶壁」の主人公である「隼の矛盾」も、うまく解き明かしてくれるのではないかと期待できたのだが、そちらの「社会心理学」な問題の解読は、そう簡単なものではなかったようだ。
ともあれ、平山の長編エッセイ「近くて遠いままの国 極私的日韓関係史」は、「秘密」に惹かれる「語学オタク」であった平山が、どのようにして「韓国」に興味を持ち、韓国の人たちと交友するようになったのかが具体的に語られ、そういう機会が、あまりなかった私としては、興味深く、少々羨ましくもあった。いくら本を読んだところで、やはり直接の体験に及ばない部分というのは、確かにあるからである。
ただし、私が、「在日」をはじめ、外国人の友達を持つことができなかったというのは、そもそも私が「人づきあいは面倒くさい」という人間で、日本人か外国人かにかかわりなく、積極的に友達を作ろうとはしなかった結果だから、これも仕方のないことだろう。
国籍に関係なく、友達にはなれるだろうが、いずれにしろ、おおむね長続きしない関係で終わるというのは、日本人の友達であっても、まったく同じことだったのである。
そんなわけで、私と平山には「物事を合理的に割り切って考える」という点で、明確な共通点がある。またそれでいて「彼岸=この世の外」に惹かれるという点でも共通しており、この「一見相反する指向」において共通点を持つというのは、かなり稀有なことではないだろうか。
また、だからこそ、平山瑞穂は、他をもって代えがたい、私の偏愛小説家だということにもなる。
しかしまた、本書を読んで感じた、平山と私の違いは、平山は「差別されている人たちへの同情」が先行したのに対し、私の場合は「差別する人たちへの敵意」が先行したという点だろう。
つまり、平山は「同じ人間なのにどうして?」という考えが強いのだが、私の場合は「日本人として恥ずかしい。絶対に許せん!」という感情の方が先に立ったため、「在日」はじめ、差別を受けている人たちとの交流を深める努力などはしなかったものの、「差別者」への攻撃は、今に至るまでずっと続けている。
平山も書いているとおり、「そんな不毛なことを」と思う人も多いだろうが、私の批評文は、良いところを褒めるよりも、悪いところを正すというものの方が、圧倒的に多い。これは多分、「陽の当たるところよりも、陰に隠れた部分、注目されにくいところにこそ惹かれる」という、私の本質的な「判官贔屓」によるものではないかと、自己分析している。
言うなれば、私は「差別者(駄作)を見捨てていない」ということなのだ。だから、彼らを「かまわずにはいられない」のである。
またそんな私だから、小説「絶壁」の方には、物足りなさを感じたのだろう。
要は、「乗り越えがたい絶壁だった」というようなお話では、とうてい満足できない。
私としては「乗り越えがたいなら、乗り越えてみせよう(ホトトギス)」であり、仮に乗り越えることができないにしても、その「絶壁」を登坂するためのハーケンを、1本でも2本でも打ち込んでやる、相手が嫌がろうと「爪痕を残してやる」というのが、私の「愛」のかたちだ、ということなのだ。
いささか「自己賛美」めいた物言いになってしまったが、ともあれ、このように書いたのは、平山瑞穂を挑発するためだ。
要は、「現実問題を扱った小説としては、あんなもの(「絶壁」)では、ぜんぜん物足りないぞ」というのが、私の言いたいことであり、「純文学」作品を書こうというのであれば、もっと「人間心理」を掘り下げて、その闇を照らすものでなければならないと、そう注文をつけておきたいのである。
私自身は、ネトウヨとの喧嘩を随時継続しつつ、関連書も読み続けている。これは「実践と研究」の両面から、その闇の奥の探求をしているということであり、私には、こうした「差別問題」について、一家言あるという自負がある。
だから、平山に対して「差別心理の問題は、そう簡単に小説にできるもんじゃないぜ」と言いたいところがある。
また、事実そうだからこそ、これまでの多くの「差別問題小説」は、「差別される側」の心理を描いてはいても、「差別する側の心理」を深く描き得なかった、とも言えるのである。
その意味で、平山瑞穂の中編小説「絶壁」は、「差別する側」を、紋切り型の「憎まれ役」として描かず、当たり前の「人間」として描いた上で、その心の闇を探求しようとした「画期的な意欲作」だと高く評価することはできよう。
だが、その試みに成功した作品とは言えないところに、平山の今後の課題が残されたとも言えるだろう。
少なくとも「現実の問題」と向き合う「純文学作品」を書くのであれば、そこは避けて通れない部分だと、くれぐれも心してもらいたいのである。
だが、ともあれ「なぜ彼等は、あれほどまでに在日の人たちを憎めるのか?」という問題は、誰もが考えて良い問題である。
単に「あいつら(差別者)自身がバカだから」「生育環境に問題があって、性格が歪んでいるから」とかいった、説明になっていない説明で満足するのではなく、もっと「一般的な問題」、言い換えれば「私たち自身に関わる問題」として考えるべきではないか。
例えば、私は「差別的信念」の問題とは「宗教信仰的信念」の問題と、本質的には同じだと思っている。
「なんで、そんなバカなことを、本気で信じ込めるのか? 客観的に見れば、明らかに間違った信念ではないか」と、そう指摘できるものである点では、「差別的信念」も「宗教信仰的信念」も、本質的には同じだし、現に両者は、しばしば結びつきがちだ。
だからこそ、この問題は一筋縄ではいかないし、そもそも「他人事ではない」というのが、私のひとまずの考え方である。
だが、いずれにしても「だから、どうしようもない(絶壁だ)」と考えて、諦めたりすべきではなかろう。なぜならそこに、「人間(的理性)」の尊厳が賭かっているからである。
(2023年4月25日)
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