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見田宗介 『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』 : この時代の 〈家郷〉とは何か

書評:見田宗介『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』(河出書房新社)

本書には、60ページほどの社会学論文「まなざしの地獄」(1977)と、同短編論文「新しい望郷の歌」(1971)の2本が収められており、これに著者の弟子である大澤真幸による懇切な解説が付されている。

「まなざしの地獄」は、連続射殺魔事件の犯人として有罪判決を受けた後、獄中で作家活動を始め、自伝的作品『無知の涙』などで知られた永山則夫を扱った作品だが、そのテーマは、永山則夫個人にはなく、永山の転落の軌跡に象徴される、当時の都市社会の問題にあった。
つまり、地方から、その貧しさ故に出稼ぎとして都市に流入してきた「集団就職」学生に対する、都会生活者による「まなざし」の地獄が、永山則夫という犯罪者を作り上げた一要因であったという事実を、永山個人の軌跡と集団就職学生へのアンケート調査などの数的資料をつきあわせることで浮かび上がらせ、当時の都市の「無自覚な実像」を描き出したのが、この論文なのである。

一方「新しい望郷の歌」は、「出稼ぎ」とは元来、地方にある「家」の生活の経済的「補助」のために、都会に稼ぎに出てくることを指していたのが、地方の経済的没落によって、出稼ぎが主たる収入源となり、本末が転倒して、もはや地方の家が本来の「家」ではなく、「足かせ」「重荷」でしかなくなったあげく、そうして「失われた家郷」の代わりに、人々が都会に「新しい家郷」を作り始めた時代、つまり「マイホームの時代」の社会を描いている。

大澤真幸は、この二つの論文から、見田宗介の「個的事例と社会的統計を結びつけて、社会の見えにくい本質を剔抉する、その非凡な才能」を紹介した後、見田の仕事が現代において、どのような「新しい意味」を持ち得るかについて、具体的なヒントを示した上で、読者にその先の思考を促している。

大澤が「解説」で示したヒントとは、例えば、永山則夫の時代においては「都会の偏見的視線の拘束性」が問題だったのに対し、本書解説が問題とした2000年前後の同時代、永山事件から約40年後の時代には、「まなざしの地獄」が、「まなざしのわずらわしい過剰さ」ではなく、「周囲のまなざしの喪失」の問題へと変容している、と指摘している。つまり、「自分は透明な存在だ」と語った14歳の少年Aによる「神戸連続児童殺傷事件=酒鬼薔薇聖斗事件」や、数年後の「秋葉原通り魔事件」などの問題だ。
かつては「周囲の拘束的まなざしからの自由」が切望されたが、この時代では「誰も自分の存在を認めてくれない」という「承認欲求としての注目願望」が「地獄」を構成している。これは、ネット環境整備などの社会的変化に対応した、人間の欲望の変化なのだが、この先、社会と人間はどう変化していくのだろうか。

さらに大澤は、この「まなざしの地獄」の意味的変容は、「家郷の変容」でもある、と解説する。
「心安らげる生活基地」としての「家郷」が、「故郷の実家」から失われて、「都会の小さなマイホーム」に移されたものの、今やその「マイホーム」も、「ひきこもり」などの新しい(家庭)問題によって崩壊し、「心安らげる生活基地」ではなくなった。
その結果、人々は、かつてなら「一家心中」を可能にしていた「家族」にではなく、ネットを介して知り合った、趣味を同じくする「他人」の中に「家郷」を求め、そこから「ネット心中」といったものが生まれてきたのではないか、と大澤は指摘する。

さて、本書が刊行された2008年には「ネット心中」という現象が、時代を象徴するものとして注目されていたわけだが、最近はそういう話をあまり耳にしない。
これは、大澤の注目したそれ(ネット心中)が、時代を象徴するものではなく、ごく例外的な一時的現象に過ぎなかったということなのか、それとも、すでに今は、2008年当時とは、「家郷」の求められる先が変わってしまったために「ネット心中」すら起こらなくなってしまったということなのか。

私たちが、見田宗介の仕事を通して考えるべき「今の社会」とは、こういうものなのである。
もはや「酒鬼薔薇聖斗の時代」でもなければ「ネット心中の時代」でもない、この今の時代。

私が「今の時代」を象徴するものとして注目しているのは、「安倍晋三政権」「自己賛美的な自国自慢」「オリンピックや万博など、国家的なエンタメへの依存」などである。
つまり、「酒鬼薔薇聖斗事件」や「秋葉原通り魔事件」で問題とされた「かけがえのない私の喪失」という「痛み」すら忘却され、人々が「痛みを感じる、個人的身体からの逃走」へと向かいだした「国民国家の補完(的一体化)願望の時代」なのではないかというのが、私のここでの見立てである。

しかし、本書の読者は、それぞれが「今の時代」と向き合って、それと対決すべきであろう。
本書が求めているのは「傍観者的評論家」ではなく、「見えない時代に立ち向かう知性」だからである。

初出:2020年1月28日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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