楠見清 『無言板アート入門』 : アートとは 想像力であり、 知性である。
書評:楠見清『無言板アート入門』(ちくま文庫)
一見したところ、赤瀬川原平の主唱した「超芸術トマソン」系の本かと思って購入したのだが、これは似て非なるものであった(と、いちおうは紹介しておこう)。
しかしこれは、だから「つまらない」というのではない。
本書は、読者に対する「期待度」がかなり高い本であって、そこで「ついていけない」読者が多いだろう本であり、そうした読者には、本書は「つまらない」であろう本、なのである。
読者の多くは、本書に『超芸術トマソン』的な「わかりやすい面白さ」を期待するだろう。だが、その「(トマソン的な)面白さ」こそが、じつは曲者なのだ。
なぜなら、赤瀬川原平は「前衛芸術家」なのであって、決して「通俗エンターティナー」ではなかった。
つまり、彼が見つけた「面白さ」とは、一般には「見過ごされてきたもの」の持つ「面白さ」であり、その「面白さ」を発見するためには、「常識的な、物の見方」をいったんは捨てて、自由に想像力を働かせることが必要であり、そこには、そんな「発見の面白さ」であった。要は、「新しい視点の発見」だったのである。
だから、赤瀬川原平やその仲間である「路上観察学会」の仲間が見つけた「トマソン」の、その「バリエーション」を探して、それを楽しみ「面白がる」というのは、本来の趣旨から外れた「形式ばかりの二番煎じ」でしかないということになる。
先に、「目を持つ人」が見つけて、その「面白さ」をわかりやすく紹介したものを、その線に沿って(真似をして)見つけるだけなら、それは「バカでもできる」ことだといえよう。
例えば、保育園児に「(赤とか青などのボードを示して)この色と、同じ色のものを探しましょう」と保育士さんが言えば、園児にも、それは容易にできるだろう。だが、「このクレパス12色には無い、色を見つけましょう」と言えば、それは決して簡単なことではないはずだ。
私たち大人だって「赤でも青でもなく、その中間の色」は「紫」だというくらいのことは「知っている」。しかし、「紫と青の中間色」を見た時に、多くの人はそれを、自身の「思い込み」にしたがって、「これは青だ」とか「これは紫だ」と分類してしまって、決して「新しい色」だとは考えないだろう。
同様に、「普通の人」というのは、物事を、社会的に与えられた「型」によって単純化し、いくつかに分類することで理解している。
たしかに、そうした「既製の型」がなければ、私たちは、少なくとも人間社会の中で生きていくことが困難となるのだが、しかしこれは、だからその「型」に「完全に捕らわれなければならない」ということを意味するわけではない。
社会生活を営むために、そうした「社会的了解における型」を「利用」するにしても、それは自覚的な利用であっても良いのである。
言い換えれば、捨てたい時には捨てられる「型」として、自覚的に了解された「型」として持っているだけなのであれば、人はもっと、この「世界」を「自由に見られる」し、「世界」から無限の価値や意味を引き出すことができるのだ。
そして、そうした「世界認識における自由」を、目に見えるかたちで示したものの中でも、より具体的で「わかりやすい」もののひとつであったのが、「トマソン」だったのである。
だが、「トマソン」は、その「わかりやすさ」のゆえに、多くの人に喜ばれはしたものの、その意図するところは、ほとんど理解されることがなかった。
人々は「トマソン的な思考あるいは視点」といったものが、「従来の型にとらわれない、物の見方」であるということを、まったく理解せず、赤瀬川たちが示した「わかりやすい実例」の方に、すっかりと魅せられてしまい、「その型にハマってしまった」のである。
したがって、今でも「路上観察」を趣味にする人はいるようだし、そうした人たちのやっていることは、一見したところは、赤瀬川原平や路上観察学会の面々がやったのと「同じように見える」かもしれないが、私の以上の説明を理解するならば、それがおよそ真逆の「保守反動」的模倣でしかないことに気づくだろう。
そんなことなら「バカでもできる」し、「前衛芸術家」である赤瀬川原平も、そんなことを喜んでいたわけではないというのも、わかりきった話なのである。だが、これは「バカにはわからない」ことなのだ。
つまり、現在理解されているところの「トマソン的な面白さ」とは、本来の「トマソン」とは真逆のものであり、言うなれば、「トマソン」の「大衆消費的頽落形式」だとでも言えよう。一一こんなものは、少しも「想像力」や「知性」を必要とせず、むしろ「反知性的なもの」でもあれば、その意味で「反芸術的に通俗的な娯楽」でしかないのである。
だから、本書著者である、美術評論家の楠見清がやろうとしたのは、赤瀬川原平の示した「原点」、「超芸術トマソンの原点」に立ち返ることであった。
ただし、「原点」であり、その思想的な「コア(核)」とも言っていい、「既製の型くずし(はずし)」というのは、決して簡単なことではない。
無論、赤瀬川原平は、その「簡単ではない」ことをやってみせたからこそ「芸術家」であり、しかも、それを「わかりやすい形で示す」ことができたから「大衆ウケ」もしたのだが、その「わかりやすい形」が新たな「既製の型」となって、むしろ「思考」を縛るものになってしまった以上、そうした「わかりやすい型」は捨てられなければならない。
そうした、既製の「わかりやすい型」を捨てた上で、新たに「新しい視角」を提示し、範を示してみせて、「思考の自由」の可能性に気づかせなくてはならない。
つまり、赤瀬川原平の示した「原点」、「超芸術トマソンの原点」に立ち返ることをしなければならないのである。
しかしこれは、いうまでもなく、きわめて困難な作業だ。
なぜならば「既製のわかりやすい型」を捨てて「新たな新しい視点」を提供しなければならないからである。「型の罠」から、徹底的に逃れ得る「速さ」を持たなければならないのだ。
そんなわけで、本書に『超芸術トマソン』的な「わかりやすい面白さ」を求めても、それは決して与えられないであろう。
似たようなことをやっているように見えても、本書でなされているのは「トマソンの頽落」を経たあとの、より高度な要求に応えようとするものなのだから、どうしたって「難易度の高いもの」にならざるを得なかったのである。
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さて、本書で扱われるのは、そのタイトルにも示されているとおりで、「メッセージを伝えるための道具でありながら、メッセージを伝えることをしなくなった掲示板や看板」であり、著者が名付けたところの「無言板」である。
本来担っていた意味を失ってしまった状態で存在している、その「無意味な存在」の典型である「無言版」という存在に、本来、担っていないはずの「意味」を見出そうとするのが、本書なのだ。
本書で扱われるのは「無言版」なのだけれども、しかしそれは、単に「何も書かれていない(掲示物のない)掲示板」だけには限られていない。
それを中心概念として、それと同様の「無意味な存在」に、広く意味を見出そうとする趣旨を持つものなので、「無言版」には、かなりのバリエーションがある。
それは、次の「内容紹介と目次」に示されているとおりである。
つまり、本書が扱っている「無言版」とは、「超芸術トマソン」のような、比較的わかりやすく「奇妙なもの」ではなく、言ってしまえば、「利用されなくなり、放置されて、意味を失った、ゴミになりかけの(掲示板に代表される、その類いの)存在」なのだ。
だから、本書に掲げられた、多くの写真は、『超芸術トマソン』に掲載された「物件」のようなインパクトを持ってはおらず、その意味で、きわめて「地味」であり、「訴えてくるところの力」が弱い。
つまり、一般的には「面白くもなんともないもの」なのだが、ここで作者が、自らのパフォーマンスによって示そうとしたのは、その「面白くも何ともない無意味なもの」に「意味と面白さ」を見出すということであり、その意義である。
それは、「無意味」とは、「既製の価値観においての無意味」なのであって、「視点(価値観)」を変えれば「新たな意味」を持って立ち上がってくるもの、ということであり、そこに示されるのが「想像力の力」であり「知性の力」の、芸術的復権なのである。
意味とは、固定的にあらかじめ「在る」ものなのではなく、人間によって「見出され=与えられ」るものだということなのだ。
だから、本書で実演されているのは「ほとんど何の面白みもないものに、面白さを見出す」というパフォーマンスである。
「ほら、こんなものでも、よく見てみたら、けっこう面白いんだよ」と、著者は、前衛芸術に詳しい美術評論家らしく、その知識と想像力を駆使して、無意味なものに意味を与えるパフォーマンスを、読者の前で「これでもか」とばかりに展開して見せる。
だが、「凡庸な読者」である私たちは、それを「楽しむ」というよりは、それに「圧倒」され、さらには、いささか「辟易」させられさえする、というのも否定できないところではあろう。
したがって、著者は、いささか勇み足気味なのではないかと、私にはそう感じられた。
たしかに著者の力量はすごいのだけれど、それと同じようなことを要求されても、ちょっと普通の者には真似ができそうにない。
つまり、「トマソン」の真似なら「できそうな気になる」のだが、本書に示された、本書著者の真似は、なかなかできそうもないと感じてしまう。
そして、これは正しい理解なのだが、問題は、そこ(著者の期待への応答不能状態)で止まって、結局は、有能な著者に、反発し拒否することしかできないのが、凡庸な読者の凡庸たる所以でもある、ということになるのだ。
本書著者が求めているのは、単純な「真似」ではない。「似たようなものを見つけろ」ということではなく、「今まで誰も気づかなかったものを見つけろ」ということであり、それが「赤瀬川原平の示した原点」であり「トマソンの原点」だったのだ。そして本書著者は、そこへ還れと言っているのだが、それはやはり、誰にでもできるものではないのではなかろうか。
そんなわけで、本書は、読者の「知性」が試される「難問」を、面白そうなものとして提示しようとした、そんな本だと言えよう。
したがって本書は、舐めてかかるとあっさり返り討ちにあうのが必定の、そんな「挑戦状」とも呼べるものである。
一一だが、それをも読み取れずに、その「型の真似」をしたがる人の方が、きっと多いのだろうなあ…。
(2023年8月20日)
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