ジャン=リュック・ゴダール監督 『軽蔑』 : ゴダールの「愛」とは。
映画評:ジャン=リュック・ゴダール監督『軽蔑』(1963年・フランス・イタリア合作)
本作は、文句なしに素晴らしい作品だ。
私は、昨年(2022年)10月に、初めてのゴダール作品として、『勝手にしやがれ』(1959年)と『気狂いピエロ』(1965年)を観て以来、「どうしてこの映画監督が、神様扱いにされているのか?」という疑問を追い続け、この1年余りの間に、十指に余るゴダール作品を観、蓮實重彦のゴダール論を読み、基礎教養として、蓮實の褒めている古典的映画作品を鑑賞し、それに並行して、自分なりにあれこれ頭を絞ってきた。また、今年公開された、ゴダールを扱ったドキュメンタリー映画『ジャン=リュック・ゴダール 反逆の映画作家(シネアスト)』(シリル・ルティ監督)を観たりもした。
だが、それらのなかに、納得のいく解答を見つけることはできなかった。
「なぜ、ゴダールは、あそこまで神様扱いされるのか? たしかに撮ろうと思えば、素晴らしい映像を撮れる作家だというのは『気狂いピエロ』によって証明されていると認めても良い。しかし、だからと言って、それだけで神様扱いは、度を過ごした過大評価としか思えない」と、そう感じられ、謎は深まる一方だったのだ。
だが、本作『軽蔑』を観て、私は私の納得できる解答を見出せたように思う。
本作は、文句なしに「面白い」し「素晴らしい」と思った作品である。だが、本作は、ただそれだけの作品ではない。なぜなら、本作には、ゴダール自身の「痛切な愛」が、かなりストレートに語られているのだ。だからこそ、本作は「率直な傑作」であり、生半可なものは弾き返す私の胸をも、強く打ったのである。
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衆目の一致しているところであろうが、この作品の魅力は、次の3点に集約して良いだろう。
(1)について。
本作は、私がその「映像美」において高く評価している『気狂いピエロ』と同一線上の作品だ。
白を基調として、そこにイエロー、マリンブルー、ピンク、オレンジ、グラスグリーン、そして血のような赤。特徴的な色彩が配される「ポップアートを引き締めたような」とでも言いたくなる鮮やかな色彩設計と、その卓越した「構図(画面構成)」によって、すべてのカットが「絵のように美しい」のだ。
(2)について。
だが、本作が『気狂いピエロ』と違っているのは、主人公たちが何を考えているのかが「わかる」という点である。本作は、ストーリー的には、「恋愛のジレンマ」であり「苦悩」を描いていると言えるだろう。
主人公の脚本家ポールは、同棲している恋人の女優カミーユに良い生活を与えてやりたいと、気の進まない仕事にも手を出すのだが、そのことがきっかけで、カミーユはポールに失望し、彼女の気持ちが理解できない彼を「軽蔑」するようになる。カミーユと別れることなど考えられないポールは苦悩するが、二人の関係は修復不可能なものとなり、やがてカミーユは「元のタイピストになる」と言って、ポールのもとを去っていく。そして…。
(3)について。
本作には、実在の映画監督、フリッツ・ラングが本人役で登場する。彼は、ドイツのサイレント映画の巨匠であったにも関わらず、ナチス政権から逃れてハリウッドに渡ってからは、その経歴を尊重されず、B級作品しか撮らせてもらえなかった不遇の人である。その彼が、この映画の中では、アメリカ資本ながら、ひさしぶりに、ホメロスの『オデュッセイア』を原作とした芸術大作をイタリアで撮っている、という設定になっている。
作中のラングは、ギリシャ精神に沿った作品と撮ろうとするが、しかし、ラッシュを見たアメリカ人プロデューサーは、これを「クソだ」と全否定して、もっと「エロを入れて、面白い映画にしろ」と言い、その方向で脚本を全面的に書き直させるために、ポールを雇おうとしていたのである。
つまり、作中のラングには、現実のラングの経験した苦闘や苦悩の現実がそのまま投影されており、作中のラングは、言うなれば「老賢人」として「映画界の現実と、この世のままならなさ」を語る人物として描かれているのだ。
このあたりについての、具体的な背景説明は「Wikipedia」からの引用でご勘弁願おう。
下に引用した「概要」では、(2)についての「背景」も語られている。
つまり、この作品では、(2)と(3)の問題、つまり「恋愛の問題と映画制作の問題」の2つが語られていると言えるだろう。
だが、肝心なのは、この2つの問題が、完全に重ね合わされて描かれているという点である。
「愛する美しい女」に愛されるためには「信念を持って、それを生きる(美しい)男」でなければならない。しかし、「美しい男」であるためには、「俗受け」と「金儲け」の世界、「俗情との結託」を強いてくる現実と、妥協するわけにはいかない。
しかしまた、「愛する美しい女」に、それに相応しい「生活」を与えてやろうと思えば、「金儲け」を考えないわけにはいかないし、そうであれば「世間の要請に妥協する」ことも避け得ない。つまり「俗受け」を受け入れるしかない。「自分の美意識」を生きるわけにはいかなくなるのだ。
だが、「妥協して美意識を捨てた男」は、当然のことながら「美しい男」ではないからこそ、彼を愛した「美しい女」は、そんな「美しくなくなった男」に失望せざるを得ない。彼女が愛した男とは、そんな「世間並みの男」ではなかったはずだからである。
一方、「映画」についても同じことで、「美しい女」である「映画」を、その女に相応しく「美しい」ものとして撮ってやろうとすると「金がかかって」しまう。まさに、本作のようにだ。
彼は「映画」を愛しているから、もちろん「美しい映画」を撮りたいし、その上で「彼の美意識や哲学を表現した作品」を撮りたいとも思う。
しかし、「巨大資本」の背景には「俗受け」がかまえているのだから、「美しい映画を撮るのは大いに結構だ。しかし君の美意識や哲学を表現した作品などお呼びではない」ということになる。
つまり「君は、一般大衆が望む、わかりやすく、楽して美しい映画を撮っておれば、それでいい。それ以上のことはするな」と、かのアメリカ人プロデューサーのように迫るのだ。
そして、彼は「愛する映画」のために、その要求を受け入れるという妥協をいったんは選ぶが、その結果、彼が愛した「美しい映画」は、そんな彼を「軽蔑」して、彼のもとを去っていき、彼は「美しい映画」からの愛を失ってしまうのである。
もちろん、ここで言う「彼」とは、ジャン=リュック・ゴダールその人のことに他ならない。
彼は、最愛の人アンナ・カリーナの「愛」を失ったような経験は、二度としたくなかった。だからこそ彼は、巨大映画資本とは縁を切って、「彼の美意識や哲学を表現した作品」を撮ることに専念するようになったのだ。
もう彼は、「愛する人」に軽蔑されたり、その愛を失ったりすることなど、二度と経験したくなかった。それほどまでに、彼は深く傷ついたのだ。
本作の「ストーリー」は、次のとおりである。
この映画で興味深いのは、「元のタイピストになる」と置き手紙を遺してポールのもとを去り、アメリカ人プロデューサーのジェレミーの車でローマへ向かったカミーユが、その途中で交通事故に遭い、ジェレミーと共に死んでしまう、という部分だろう。
これはほぼ間違いなく、「気高く美しい女」であったカミーユという「気高く美しい映画」が、ハリウッドに代表される「巨大映画資本」を「ちょっと利用させてもらう(車で送ってもらう)だけ」のつもりだけだったのだとしても、その結果「死んでしまう」ことになるだろうと、そう予告しているのだ。
もちろん、それで「巨大映画資本」も一緒に死んでくれれば、まだしもなのだが、カミーユの代わりはいなくても、アメリカ人プロデューサーのジェレミーの代わりならいくらでもいるのだから、「巨大映画資本」が死ぬことはなく、ただ彼の愛した「気高く美しい映画」だけが死ぬことになるのである。
だから、ゴダールが「愛する女」を着飾らせるとことを諦めて、ただ「愛した女」に「愛されるに値する男」であり続けようとするようになった一一という選択は、とてもわかりやすいものだ。
無論、その選択は「とてもわかりやすい」ことではあるが、決して「容易なこと」ではない。事実、多くの映画作家たちは、「愛する女のために」というのを口実にして、「巨大資本」と寝て、「ガルガンチュアの赤ん坊」を産むことを選んでいるからである。
したがって、本作を観て私はやっと「なぜ、ゴダールが、あそこまで神様扱いにされるのか」というのが、理解できた。
それは、「巨大資本と寝ること」で「軽蔑」されてでも「愛する女(映画)」に執着し続けることしかできない哀れな映画人たちは、ゴダールの悲壮な選択に、おのずと「後ろめたさ」に由来する「畏怖と敬意」を感じざるを得ない、ということである。「ゴダールから見れば、私はきっと軽蔑すべき人間だ」と、そう感じざるを得ないのだ。
だから多くの映画人は、自分には到底できない選択をしたゴダールに敬意を表することで、情けない自分に少しでも「アリバイ」を与え、自己正当化しようとしたのであろう。また、ゴダールの目が、冷たく突き刺さって感じられたのだ。
「愛する女」を愛し続けるためには、「愛する女に愛されるに値する男」であり続けなければならない。しかし、そのためには「愛する女」を手放す覚悟さえ、必要となるのである。
ゴダールの映画が、しばしば「美しくない」のは、「去っていった美しい女」に対する「俺はもう、世間になんか妥協なんかしないよ。俺は、君が尊敬してくれる作品を撮り、君が尊敬してくれるであろう男であることを選ぶ。それ以外には、もう何も望みはしない」と、そう語っているからなのではないだろうか。
(2023年12月28日)
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