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本能寺の変1582 【重史113】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史113】 「阿弥陀寺文書」 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史113】 そ第11話㉞

阿弥陀寺敷地指図、幷(ならび)に、方々、寄進分、

                     「阿弥陀寺文書」

 永禄十二年1569、六月二十一日。

 光秀は、寺社問題に携わっていた。
 同二十一日
 以下は、阿弥陀寺の清玉上人に宛てたもの。

  阿弥陀寺敷地指図、幷(ならび)に、方々、寄進分、
  御下知を以って、仰せ付けらるゝ由、尤もに候、
  弥(いよいよ)、御建立、肝用(要)、相応の儀、
  疎意有るべからず候、
  恐々謹言、

    永禄十二      明智十兵衛尉
     六月廿一日        光秀(花押)

    清玉上人
      御同宿中
           (「阿弥陀寺文書」「明智光秀史料で読む戦国史」)

 阿弥陀寺について。

  織田信長とのゆかりが深い阿弥陀寺は蓮台山と号した浄土宗の寺で,本
  尊は阿弥陀如来,江戸時代には浄土48願寺巡拝の16番でした。天文年間
  (1532~55)清玉が近江国坂本に創建し,織田信長の帰依を得て上立売
  大宮に移り,天正10年(1582)に信長が本能寺の変に自刃した時,その
  父子らの骨灰を集めてこの寺に埋葬したと伝えています。その後,天正
  15年の寺の移転とともに織田信長以下120余名の墓も移設されました。 

京都市ホームページ

 清玉上人について。
 阿弥陀寺の創建者。
 織田家と所縁(ゆかり)の深い人物だったらしい。
 それ故なのだろう。
 信長との関係も、色濃いものがあった。
 天正十年1582六月二日、本能寺の変後、信長の遺灰を拾い集め、
 寺に持ち帰り、墓を建て、弔ったという。
 二条城で討死した信忠についても、これに同じ。

 【参考】
  史籍集覧 第五十八 「信長公阿弥陀寺由緒之記録」429~437P


 【引用】 そ第11話㉞ 



 ⇒ 次へつづく


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