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本能寺の変1582 【重史117】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史117】 「言継卿記」 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史117】 そ第11話㊱

明智市慰に、近所にて行き合うの間、

                     「言継卿記」

 永禄十二年1569、七月十日。

 山科言継は、岐阜に到着した。
 七月十日(永禄十二)
 言継は、正午前、

  十日、壬午(みずのえうま)、天晴、戌・丑の刻(20~2時頃)、大雨、
  垂井に於いて、出立、
  払暁に、立ちおわんぬ、
  馬二疋、申し付け、一疋、予、乗りかけなり、

  巳の下刻(午前10時過ぎ頃)、
  岐阜の麓里、塩鹽伝内(名字大脇と云々)宿に付きおわんぬ、
  宮笥(みやげ)、扇、一本、
  代、十疋を遣わす、
  此所に逗留しおわんぬ、

 奏者(取次)は、武井夕庵。
 言継は、夕庵(せきあん)を頼った。

  則ち、(沢路)隼人佑、両度、武井肥後入道夕庵所へ遣わし、
  城へ上せ、留守と云々、
  申し置きおわんぬ、
  日乗上人、折り紙、持ち遣わしおわんぬ、

 武井夕庵は、信長の祐筆・側近・吏僚。          【 人物 】
 生年不詳。
 おそらく、六十歳ぐらいか。
 高齢であった。
 天正三年1575、光秀らとともに任官。
 「二位の法印」となる。
 信長の重臣の一人である。 

 言継は、岐阜城下で、偶然、「明智市慰(光秀)」と会った。
 市慰(光秀)は、十日前(六月二十九日)、京にいた。
 その時、言継と「一盞」があった。
 六月三十日~七月九日は、所在が不明。
 程なくして、岐阜へ向かったものと思う。
 
 言継は、この日(七月十日)、岐阜城下で市慰(光秀)と遭遇した。
 光秀(市慰)は、京都奉行。
 信長に、会わねばならぬ理由があった・・・・・。
 それ故の、岐阜。
 しかし、「とんぼ返り」。
 京へ戻るという。
 光秀(市慰)は、多忙だった。
 奉行ならば、当然のこと。
 言継は、市慰(光秀)に「倉部方へ」の書状を託した。
 この時も、まだ、光秀の確かな名を知らなかったようである。

  明智市慰に、近所にて行き合うの間、
  (京の)倉部方へ、書状言伝しおわんぬ、
                           (「言継卿記」)

 【引用】 そ第11話㊱



 ⇒ 次へつづく

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