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本能寺の変1582 【重史112】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
【重史112】 「言継卿記」
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→【シリーズ】
信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5
→その一因 目次大 概説大 目次中 →
1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
4光秀の苦悩 5志向の相違 +信長の油断 →
3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
→見えてきたもの 目次大 目次中 +240607
→【人物】
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正
【重史112】 そ第11話㉞
度々、申し遣わすと雖も、明智、返事無しの由
「言継卿記」
永禄十二年1569、六月二十日。
光秀は、朝山日乗のことをよく知っていた。
六月二十日。
朝山日乗は、山科言継から、「東寺路次の事」について、尋ねられた。
日乗は、光秀に、何度も、催促していた。
「度々、申し遣わす」
だが、まだ、返事が来ない。
「明智、返事無しの由」と、のみ。
簡略に、応えている。
日乗は、光秀に対して、相応の気を遣っていた。
二人の立場・力関係が、それとなく感じられる部分である。
廿日、壬戌(みずのえいぬ)、天晴、
日乗上人え、罷り向かう、
東寺路次の事、如何の由、尋ねるのところ、
度々、申し遣わすと雖も、明智、返事無しの由、申す、
(「言継卿記」)
この「明智」とは、光秀のこと。
義昭の家中に、光秀以外の「明智」は存在しない。
【重史051】 「永禄六年諸役人附」
山科言継は、光秀のことを、まだ、よく知らなかった。
光秀は、新任の京都奉行。
名を知る者は、ほとんどいない。
言継も、それに同じ。
それ故の、「明智」である。
これが、光秀の、「言継卿記」における初登場の場面である。
以後、同記に、度々、登場する。
【引用】そ第11話㉞
⇒ 次へつづく