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本能寺の変1582 【重史116】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史116】 「言継卿記」 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史116】 そ第11話㉟

①九月五日、せんくわうの御十三年にて候、

②とく川、ちそう(馳走)いたし候やうに、

                     「言継卿記」

 永禄十二年1569、七月六日。

 朝廷は、三河の徳川家康へ財政支援を求めた。
 同日(七月六日)
 朝廷より、家康へ。
 「女房奉書」*
 使者は、山科言継。

  長橋の局へ、罷り向かう、
  女房奉書、出され、此の如し、

  九月五日、せんくわうの御十三年にて候、
  御せんくわう、をこなはれたく、おほしめし(思し召し)候へとも、
  いかにも、とヽ(調)のほり候はぬまヽ、
  とく川、ちそう(馳走)いたし候やうに、
  ないない(内々)、せいくわん(誓願)寺のちやうらう(長老)と
  ないたん(内談)候て、
  とヽ(調)のほり候やうに、よく、おほ(仰)せ事候へく候、
  めてたく、やかて、御とヽ(調)のへ候て、御のほ(上)り候へく候、
  心え候て、申す、とて候、
  かしこ、
  仰せ、永禄十二、七、三、
     山しなの大納言とのへ   
                 (「言継卿記」永禄十二年七月六日条)

 *女房奉書
  天皇の側近の女官(女房)が、天皇の意思を奉じて、発給する文書。
  仮名書きのため、読みにくい。

 【引用】 そ第11話㉟ 



 ⇒ 次へつづく

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