本能寺の変1582 目次小 光秀という男 4教訓 109* 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。日本史、信長公記、斎藤道三、足利義昭、武田信玄、上杉謙信。『光秀記』
目次小 光秀という男 4教訓 109*
109 光秀は、土岐の歴史から教訓を得た。
一、主君といえども、油断してはならぬ。
一、頼りとするのは、己の力のみ。
一、判断を誤れば、消滅する。
光秀の脳裏には、常に義満と信長があった。
光秀は、土岐康行を、自身と重ね合わせた。
目次大 光秀という男 92~123
目次中 光秀という男 92~123
目次小 光秀という男 92~123
信長と、ともにあった十五年。
永禄十一年1568~天正十年1582。
光秀を知ることは、信長を知ることである。
⇒ 次回へつづく
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