本能寺の変1582 第2話 1信長、死す 是非に及ばず 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
第2話 1信長、死す 是非に及ばず
明智の軍勢が本能寺を取り囲んだ。
光秀は、少し離れたところに本陣を構えた。
既に、信長公御座所本能寺取り巻き、
大喊声が沸き起こった。
攻撃が始まった。
勢衆、四方より乱れ入るなり。
信長は、これに気づいた。
何やら、外が騒々しい。
小姓たちが走った。
慌ただしい空気が流れる。
「もしや」
・・・・・。
不吉な予感。
信長も御小姓衆も、
当座の喧嘩を下々の者ども仕出(しだ)し侯と、
おぼしめされ侯のところ、
「謀叛」
明智勢が鉄砲を打ち込んだ。
「謀叛」
信長は、これで、わかった。
「ならば」
頭脳が激しく回転する。
「何者ぞ」
・・・・・。
一向さはなく、
ときの声を上げ、御殿へ鉄炮を打ち入れ侯。
是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、
御諚のところに、
是非に及ばず。
「惟任光秀」
一瞬、その顔が脳裏を過(よぎ)った。
信長は、覚悟を決めた。
森乱申す様に、明智が者と見え申し侯と言上侯へば、
是非に及ばずと、上意候。
時は、容赦なく流れていく。
明智勢が御殿へ殺到した。
信長方は、表御堂の番衆と一手になった。
これを迎え討つ。
透(すき)をあらせず、御殿へ乗り入れ、
面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候。
本能寺は、修羅場と化した。
奮戦すれども。
虚し。
衆寡敵せず。
家臣らは、次々に討死していく。
御厩、無惨。
以下、討死の衆。
忠義の者たちである。
御厩(うまや)より、矢代勝介・伴太郎左衛門・伴正林・村田吉五、
切つて出で、討死。
此の外、御中間衆、藤九郎・藤八・岩・新六・彦一・弥六・熊・
小駒若・虎若・息小虎若を初めとして廿四人、
御厩にて討死。
御殿では、死闘が繰り広げられた。
なれど、及ばず。
同じく、討死の衆。
信長の近習たちである。
主君のために、身命を捧げた。
御殿の内にて討死の衆。
森乱・森力・森坊兄弟三人、小河愛平・高橋虎松・金森義入・
菅屋角蔵・魚住勝七・武田喜太郎・大塚又一郎・狩野又九郎・
薄田与五郎・今川孫二郎・落合小八郎・伊藤彦作・久々利亀・
種田亀・山田弥太郎・飯河宮松・祖父江孫・柏原鍋兄弟・
針阿弥・平尾久助・大塚孫三・湯浅甚介・小倉松寿。
御小姓衆、懸かり合ひ懸かり合ひ、討死侯なり。
斯く戦えり。
湯浅甚助・小倉松寿、此の両人は、町の宿にて此の由を承り、
敵の中に交(まじ)り入り、本能寺へ懸け込み、討死。
御台所の口にては、高橋虎松、暫らく支へ合ひ、比類なき働きなり。
(『信長公記』)
戦国の世である。
下剋上が罷り通る時代だった。
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