『学問のすすめ』は、もともと一般向けの読み物や小学校の教材として提供されることを意図していた。そのため、初編から三編までは、わかりやすさを重視し、口語的な表現を多用していた。しかし、四編では文章のスタイルを少し変更し、難しい単語も取り入れた。この五編も、明治7年の1月1日に社中会同で話した内容を文字にしたもので、スタイルは四編と同様で、読むのが難しい部分もあるかもしれない。結局のところ、四編と五編は学者をターゲットとしているので、このような形になっている。
一般の学者たちは、しばしば元気がなく、その精神力は不確かだが、文字に対する理解力は確かである。どんな難しい文章も理解できるから、この二編も難解な文章を気にせず書き、その内容も高尚になっている。これにより、本来の目的であった一般向けの読み物としての『学問のすすめ』の趣旨から外れてしまい、初心者にとってはとても読みづらいものとなってしまったかもしれない。しかし、六編以降は、再び初編のようなわかりやすいスタイルに戻り、初心者の利便性を考えて書かれている。だから、この二編だけで全体の難しさを判断しないでほしい。
私はこの日、慶応義塾にいた。明治七年一月一日、これは我が国の独立を意味する年号である。そしてこの塾も、私たちの独立精神を持つ場所である。独立を誇る学びの場にいて、新たな独立の年を迎えることは、何とも喜ばしいことである。だが、今この瞬間を喜ぶことができるのも、もしもこれを失ってしまえば、その喪失が悲しむべきことに変わるからである。だから、今日の喜びの中にも、いつかの悲しみが訪れることを忘れてはならない。
歴史を振り返ると、我が国は多くの政治的変動を経験してきた。しかし、今日まで国の独立を保持できたのは、長い間我が国が他国との関係を避け、自国だけの世界で生きてきたからである。他国との関わりが少なければ、国の繁栄も衰退も、すべては国内だけの問題であり、外部の力に左右されることはなかった。それは、まるで外の世界と接触がない子供が家の中だけで育つようなもので、その弱さは当然知られるべきことである。
しかし、現在は外国との関係が急速に深まり、国のあらゆる事務が国際的な視点で考えられるようになった。すべての事物は他国との比較の中で位置づけられ、これまでの我が国の文化や技術の成果も、西洋の国々と比べると、追いつくどころか、追い越すことさえ難しい状況にある。このような状況下で、我が国の独立の脆弱さを感じるのは当然である。
国の進化や発展をただ外見だけで評価すべきではない。学校、工業、陸軍、海軍など、これらは文明の外見に過ぎない。このような形態を作り上げるのはそれほど難しくなく、お金を使って手に入れることも可能だ。しかし、ここで考えるべきは目に見えない、耳で聞くことのできない、売ったり買ったりすることのできない、あるいは貸し借りすることもできない非物質的な要素がある。この要素は国の中のどこにでも存在し、その影響は非常に強い。この要素がなければ、学校やその他のものは真の価値を持たない。この最も重要な要素こそが、文明の本質であり、それは国民の自立した精神、つまりその気力である。
近年、我が国の政府は学校を増やし、工業を奨励し、陸海軍の体制も大きく改善してきた。文明の外見としてはほぼ整っているが、国民がまだ外国に対して自立の精神を持ち、積極的に競争しようとは思っていない。また、外国の事情を知る機会がある人々も、その事実を深く理解する前に、まず恐れを感じることが多い。他国に対して恐れる気持ちを持っていると、もし何か利益を得ることができても、それを実際に活用することはできないだろう。結局のところ、国民が自立の精神を持っていなければ、外見の文明も結局のところは無駄なものになってしまう。
最初に、我が国の人々が活気を欠いている理由を考察すると、長い歴史を通じて、国の全権力は中央政府が一手に握ってきた。武力や学問から、産業や商業に至るまで、たとえそれが些細な事務であっても、政府の関与を逃れることはなかった。人々は、政府が示す方向にただ追随するだけで、まるで国が政府の私物であり、人々はその客人のようになってしまった。結果として、人々はこの国での生活の中でただ生き延びるだけを目指し、国を自分のものとして深く思うことなく、自らの活力を発揮する機会を得ることなく、全体としての国民の意識や気質が形成されてきたのである。
さらに現代の状況を見ても、より深刻な問題が浮かび上がる。基本的に、何も進化しないものは退化し、退化しないものは進化する。進化も退化もしない状態、つまり停滞は理に反する。現在、日本の状態を観察すると、文明の外見は進んでいるように見えるが、文明の本質である国民の気力は日々後退している。考えてみてほしい。過去、足利や徳川の政府下で、国民を支配するのには力が必要で、その力の前に国民は服従していた。力に劣る者は心から服従しているわけではなく、ただ恐れから従っていたに過ぎない。現在の政府はただの力だけではなく、非常に賢明で、事の成り行きに後れることはない。新しい体制が始まってまだ十年も経たないうちに、学校や軍の改革、鉄道や電信の導入、そして石造りの建物や鉄の橋の建設など、その迅速な決断とその成功は人々を驚かせるものである。しかし、これらの学校や軍、鉄道や電信、建物や橋、すべては政府のものであり、国民としてどう感じるべきなのだろうか。
多くの人々はこう主張する。「政府は単に力を持つだけでなく、知恵も持っている。私たちが到底及ぶことのできない存在である。政府は高い位置にあり、国を統治しており、私たちはその下でその指示に従うだけである。国の運命は上層部の責任であり、私たち下層の人々の関与する場ではない」と。要するに、古代の政府は力に依存していたが、現代の政府は力と知恵の両方を使用している。古代の政府は民衆の管理方法が不十分であったが、現代の政府はその方法に長けている。古代の政府は民衆の物理的な力を抑え込んでいたが、現代の政府は彼らの心を捉えている。古代の人々は政府を恐れる存在、鬼のように見ていたが、現代の人々はそれを尊敬し、神のように見ている。古代の人々は政府を恐れていたが、現代の人々は政府を尊敬し、時に崇拝する。この流れが変わらなければ、政府が何か新しい方針を立てたとしても、外見は次第に洗練されていくかもしれないが、国民としての活力は失われ、真の文明の精神は次第に衰退していくであろう。
現在、政府は常設の軍隊を持っている。国民はこれを国を守る軍隊として評価し、その力強さを祝福して誇りに思うべきだが、逆にこれを国民を圧迫する手段として恐れている。同様に、政府が学校や鉄道を持っている今、国民はこれを我が国の文明のシンボルとして自慢するべきだが、逆にこれを政府の特権と考え、ますますその恩恵を求める心境になっている。国民は既に自国の政府に対して不安や恐れの感情を抱いている。そんな中、どうして外国との競争で文明を争う余裕があるだろうか。だからこそ、国民に独立心や自立の意識がなければ、文明の外見を築くことはただの役立たずの装飾であり、さらには国民の意識を後退させる手段となるだろう。
こう考えると、国の発展や文明は、上層の政府だけから生まれるわけではなく、また最も下層の人々だけから生まれるわけでもない。むしろ、それは中間層、すなわち中流階級から生じ、彼らが示す方向に大衆が従い、政府と協力することで真の成功が得られる。西洋の歴史を見ると、商業や産業の進歩は政府の直接的な創出ではなく、むしろ中流階級に属する研究者や学者たちの創意工夫から生まれている。蒸気機関はワットによる発明であり、鉄道はステフェンソンのアイデアであり、経済学の基本原則や商業の方法を革命的に変えたのはアダム・スミスの功績である。これらの偉大な人々は、いわゆるミドルクラスに属し、国の政策決定者でもなく、また一般の労働者階級でもない。彼らは国民の中間層に位置し、その知識と才能で時代をリードしていた。彼らのアイデアや発明は、まず個人の思考から始まり、それを公にし、実際に実行するためには、個人や民間の協力が必要であり、その結果として多くの人々の福祉に寄与し、長い間続く貢献を残してきた。このプロセスにおいて、政府の役割は、これらの取り組みを妨害することなく、適切に実行されるように支援し、人々の意向を理解し、保護することである。
文明を推進するのは一般の国民であり、その文明を守るのは政府である。この考えに基づくと、一国の国民はその文明を自らのものとして持ち、これを競い合い、これを誇りとし、国に何か素晴らしいことが起これば、全国の国民がその成功を祝福する。ただ、他国に先を越されることだけが懸念である。このような視点から、文明に関連するすべての事柄が国民の意識や意欲を高める要因となり、その一つ一つが国の独立を支える。この概念は、我が国の現状とは逆の考え方であるとも言える。
現在、我が国におけるミドルクラスの地位にいるとされる学者たちが、文明の推進と国の独立を守るべき役割を持つとされている。しかしこの学者たちの中には、時流に対する洞察が足りない者や、国の課題に対して真剣に取り組む意識が乏しい者、あるいは単に政府に頼って物事を進めるだけの者もいる。多くの彼らは、その中流の地位に満足せずに、公職を求め、細かい業務に追われて身体や精神を消耗している。彼らの行動には疑問符をつけたくなる部分も多いが、彼ら自身はその状況を受け入れ、一般の人々も特に疑問を持たない。更に驚くべきことに、「このような状態でも、真の賢者は存在しない」と言いながら満足する人さえいる。確かに、この現状は時代の流れとして仕方ない部分もあるだろうが、我が国の文明発展の観点から見れば、これは大きな問題である。文明の発展を牽引すべき学者が、その役割を果たせずに精神的な衰退を見せているこの状況を、ただ傍観するだけの人々が多いのは、本当に問題であり、深く憂慮すべき状況である。
慶応義塾の私たちだけが、この困難な状況を避けてきた。数年間、独立の名を保ち、独立の精神を栽培してきた。私たちの目指すところは、全国の独立を維持することにある。しかし、時代の流れは猛烈であり、その力は急流や強風のように強大である。この流れに抵抗して立ち向かうことは容易ではない。強い意志と努力がなければ、流されたり、倒されたりするリスクがある。勇気や力は、単に読書だけで得られるものではない。読書は学びの手段であり、学問は実践の手段である。現場の経験がなければ、真の力は得られない。私たちの仲間で既にこの知識を持つ者は、困難を乗り越え、学んだことを現代の実際に適用しなければならない。商業、法律、技術、農業、著作、翻訳、新聞の発行など、あらゆる文明の側面を採用して私たちのものとし、国民の先駆けとして政府と協力して、公的と私的な力をバランスよく使い、国の全体的な力を高め、独立を不動のものとする基盤を築くべきである。外国との競争で譲歩せず、数十年後には、今日の状況を振り返り、当時の独立を自嘲するほどの力を持つことが、最大の喜びである。学者として、その方向性を明確に持ち、期待するところを持つべきである。
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