
【日本音楽史】⑤17世紀後半~18世紀初頭(元禄時代の周辺)
日本の音楽史を古代から令和まで概観していくシリーズです。
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過去には西洋音楽史編(クラシック史+ポピュラー史)もまとめておりますので、そちらも是非チェックお願いします。
●クラシック史とポピュラー史を繋げた図解年表 (PDF配布)
●分野別音楽史
●メタ音楽史
【概観 日本音楽史】
ここまでの記事 ↓
まえがき
①古代~上代
➁平安時代~鎌倉時代
③室町・戦国・安土桃山
④江戸時代初期(17世紀前半~中盤)
<今回>⑤17世紀後半~18世紀初頭(元禄時代の周辺)
※文化史区分と時代背景
音楽史に限らず日本史のお勉強(特に「文化史」の分野)において江戸時代の文化を語る際には、「元禄年間(1688~1704)」に上方で発展した元禄文化と、江戸時代後期の「文化(1804~1818)・文政(1818~1831) 年間」に江戸で発展した化政文化の二つのトピックを挙げてよく紹介されます。
しかし、文化史をこの二つの時代区分のみで捉えた場合、それぞれの文化が単発的な印象になってしまい、その前後や中間の流れが分かりにくくなってしまうように感じるんですよね。
今回は一般的には江戸時代前半の文化として代表される「元禄文化」に相当する時代を見ていきますが、単に元号としての元禄年間の年号を見てみると、15年程度しかありません。この限定された期間の文化として紹介するのではなく、前回(江戸時代初期)の続きから、徳川吉宗の時代が始まる1716年頃までの期間を大きく「17世紀後半~18世紀初頭(元禄時代の周辺)」と区切って、紹介していきたいと思います。
ちなみに、ここで江戸幕府将軍の在位期間を指標にして状況を見てみると、三代将軍・徳川家光(1623~1651在位)の在位中に海禁政策 (鎖国) が進み、四代将軍・徳川家綱(1651~1680在位)の頃には幕藩体制も安定しており、上方(関西)を中心に文化の発展する基礎が築かれていきます。そして続く五代将軍・徳川綱吉(1680~1709在位)の時代に含まれるのが元禄年間になりますね。徳川綱吉といえば有名なのが生類憐みの令ですが、その発布が1685年になります。
綱吉の後には、六代将軍・徳川家宣(1709~1712在位)が就任し、綱吉の生類憐みの令を一部廃止したり、学者の新井白石を登用して政治改革を試みたりしましたが、就任からわずか3年で間もなく死去してしまいました。さらに続く七代将軍・徳川家継(1712~1716在位)はなんと4歳で将軍に就任し、史上最年少の「幼少将軍」に。しかしこちらも数年で死去してしまいました。こうして立て続けに将軍が交代してしまった後に、「暴れん坊将軍」でも有名な八代将軍・徳川吉宗の時代へと移っていきますが、今回の記事はこのあたりまでの範囲となります。
◉「義太夫節」による人形浄瑠璃の隆盛
江戸時代初期から発達を始めていた人形浄瑠璃は、語り手によって節の語りまわしが異なり、演奏者の名前を付けた名前でも呼ばれるようになっていきました。
そうした中で17世紀末、竹本義太夫(1651~1714)という名語り手が現れます。竹本義太夫は大坂の道頓堀に竹本座を開き、浄瑠璃を独自発展させた「義太夫節」を創始。台本作者の近松門左衛門(1653~1724)との出会いによって、義太夫節の人形浄瑠璃が世を席捲していきました。
そのきっかけは、1685年の作品『出世景清』。この作品は浄瑠璃に革命を起こし、これ以前の作品を「古浄瑠璃」、以後の作品を「新浄瑠璃」や「当流」などと区別して呼ぶようになります。義太夫節の爆発的流行よって「浄瑠璃」とは、ほぼイコールで「義太夫節」の意味になってしまったほどで、こうして人形浄瑠璃が江戸時代を代表する演芸といわれる存在になったのでした。
浄瑠璃の脚本は、歴史上の人物や事件を扱った「時代物」と、町人の生活を描く「世話物」に大きく分けられます。
もともとの浄瑠璃で語られていたのは「時代物」で、武士や貴族を主人公とし、時代設定が江戸時代以前の物語として作られました。源平合戦や有名な敵討ちなど、歴史上の事件や人物を題材にしています。また、江戸時代に起こった政治的な事件を、過去の時代の出来事として脚色することもありました。近松門左衛門の作品では、上述の『出世景清(1685)』や『国性爺合戦(1715)』が有名です。
一方で近松は一般庶民である町人を主人公として日常生活で起こった様々な事件や、その事件にまつわる恋愛模様・人間同士の葛藤を描いた作品も創り出し、これが「世話物」という新たなジャンルの誕生となりました。『曾根崎心中(1703)』『冥途の飛脚(1711)』などが有名作品です。
さて、人形浄瑠璃の人気は竹本座だけでは収まりません。つづいて同じく大坂の道頓堀に1703年「豊竹座」がオープンします。作者としては紀海音が活躍。竹本座と豊竹座の二座が競い合い、浄瑠璃は全盛期に突入していきました。
また義太夫節とは別途に重要なのが都太夫一中(1650~1724)が京都で創始した一中節です。当初は上方のお座敷浄瑠璃として出発して広く愛好されましたが、後に江戸に伝わって歌舞伎の伴奏音楽としても用いられることになったほか、京都でも更に独自の発展をしていくことになります。
◉歌舞伎― 地域性の出現と名優の登場
女歌舞伎や若衆歌舞伎の禁止によって内容の抜本的改革を迫られた末に成立した野郎歌舞伎を起点として、「歌舞伎」は17世紀後半に演劇的な内容を充実させ、舞台芸能としての存在を補強していきました。元禄時代に入ると、関東・関西それぞれの歌舞伎の独自性も生まれ、関東では「荒事」、関西では「和事」というジャンルが生まれます。
江戸歌舞伎の「荒事」は、ヒーローが悪者を退治する勧善懲悪の痛快なストーリーが中心。派手な扮装で荒々しくダイナミックな演技を行います。名優として、初代・市川團十郎が活躍しました。
上方歌舞伎の「和事」は、恋愛メインの人間ドラマが中心。その多くは遊女と若旦那の恋を描いた作品で、柔らかで優美な演技で観客を魅了するのが特徴となります。こちらは初代・坂田藤十郎や初代・中村七三郎が活躍しました。
さらに、歌舞伎では、女性の舞台登場そのものが禁止されたままであったため、工夫の一つとして男性による女方の芸が登場します。若衆歌舞伎~野郎歌舞伎でのノウハウが活用されているとも言われています。有名な女方には芳澤あやめ、瀬川菊之丞がいます。
このような名俳優らによって、上方と江戸のそれぞれで、歌舞伎はさらに発展を遂げていきます。
◉「生田流筝曲」の誕生
八橋検校によって産声を上げた近世筝曲は、弟子の北島検校へと受け継がれ、さらに孫弟子にあたる生田検校(1656~1715)へと継承されました。
そして生田は17世紀末(1695年ごろ)、「生田流筝曲」を創始します。
この「生田流筝曲」は、現在まで筝曲の二大流派のうちの一つとして残っているほどの大きな流派となりました。
生田の功績は、それまで別々に演奏されていた三味線音楽の地歌と箏曲を組み合わせ、合奏形式の地歌系箏曲を作ったことです。平曲も専門としていた生田は、三味線との演奏に対応するために、スクイ爪など多くの新たな奏法を考案したり、箏に向かって斜め左を向いて座わる姿勢などの工夫が行われ、これが筝曲の奏法・技巧の大きな発展に繋がったのです。
三味線音楽である地歌と生田流筝曲はレパートリーを共有し、互いに影響し合いながら継承されていきました。
◉胡弓の出現と三曲
この時期、三味線と同じく三本の弦を持ち、三味線を小さくした形の楽器である胡弓が出現しました。その名称のために中国の楽器だと思われがちですが、胡弓は日本で生まれた楽器だと考えられています。ただし、胡弓は三味線とは違い、弓で擦って演奏しますが、その発想は外来であると思われます。その起源は諸説があり定かではありませんが、三味線よりやや遅い江戸時代初期には文献に登場し始め、17世紀の間には広まっていたとみられます。
胡弓音楽も、やはり盲人音楽家らによって発展。胡弓に固有のレパートリーが作られていった一方で、筝曲や三味線の地歌とも同時に発展し、相互に深く関わり合っていきます。胡弓、筝曲、三味線の音楽を総称して「三曲」といい、江戸時代中期にかけて花開いていくことになります。
◉普化尺八の出現
尺八と呼ばれる楽器が中国から日本に伝えられていたのは奈良時代のころだと言われていますが、当初は唐楽で用いられていたものの使用されなくなっていました。一方で、江戸時代に別の尺八が登場し、それが普及して現在に至っています。それが普化尺八です。
ただこの時期の普化尺八は、仏教の禅宗の一派として出現していた「普化宗」の法器(宗教の道具)でした。普化宗は虚無僧と呼ばれる僧の集団で構成される特殊な宗派でした。
尺八の吹奏は宗教行為であったため、属さない人の演奏は禁止され、属する人にはほかの音楽の伴奏や合奏が禁止されていました。吹奏は宗教的な状況下に限られ、曲調も瞑想的な独奏のみ。さらに、「一寺一律」といって、それぞれの寺に固有の吹き方があり、伝承はバラバラだったのです。
この次の時代に、他の邦楽と同じように、流派としてまとまる動きが出現することになります。