#15 音楽史⑩ 【1830~48年】「ロマン派 "第二段階"」 パリ社交界とドイツナショナリズム
ポピュラーまで見据えて西洋音楽史を描きなおすシリーズの続きです。このシリーズはこちらにまとめてありますので是非フォローしてください。
前回は19世紀初頭、ベートーベン存命中の期間を「ロマン派第一段階」として紹介しました。ドイツ地域ではシューベルトとウェーバーがその時代に該当し、イタリアオペラではロッシーニらが活躍中でした。
今回は、ドイツ的には1826~28年にベートーベン・シューベルト・ウェーバーらが相次いで息を引き取ったあとの時代、フランス的には七月革命後の「七月王政時代」、つまり1830年頃以降を「第二期ロマン派」として取り上げます。
パリのサロンコンサート
19世紀フランスでは王政復古時代(1814~1830)と七月王政時代(1830~1848) の両宮廷を頂点として一大音楽文化圏が展開されていました。女性貴族たちを中心とする音楽サロンの集合体が、音楽家たちを受け入れ、評価し、援助し、成功へと導く母体としての役割を果たしていたのです。彼女たちにとって、サロンコンサートの開催は単なる暇つぶしではなく、貴族としての威信をかけて行う公の活動でした。自らのステータスのために、競い合うようにサロンコンサートが開催されていました。
パリの街はセーヌ川を取り囲む4つの地区にさまざまな界隈がひしめきあっていました。
約3400ヘクタールの小さな地区の中に、貴族、政治家、資本家、商工業者、職人、芸術家などあらゆる人々がひしめきあっていたのです。
このような社会のなかで開催されていたサロンとは、主催の貴族が客人を招いて開催するパーティーのこと。どの界隈のサロンと関わっているかで、立場が判断されたといいます。サン=ジェルマン地区に出入りするには礼儀作法と品格を、ショセ=ダンタン地区に出入りするにはアートの最新事情を熟知していなければならない、というようなことがあったのです。
王侯貴族の権威が解体されたかに見えても、階級意識は社会・文化にまだまだ深く浸透しており、音楽家たちは裕福な貴族や大資本家にパトロンになってもらうために、このような社会を生き抜き、成り上がっていったのでした。
さて、そんなサロンでのコンサートの聴衆の空気感は自由で、くつろぐ人、集中する人、談笑する人などさまざまだったといいます。それでいて親密な一体感がありました。その場のリクエストで曲が決まることも多く、自由な場だったそうです。当時このようなサロンは800以上も存在していました。
音楽内容としては、復古王政時代はロッシーニなどのオペラコンサート中心だったのが、七月王政期に入るとピアノコンサートが増加します。
ポーランドから上京し、頭角を現したショパン(1810~1849)はサロン音楽の花形でした。大きな音を好まなかったショパンは、サロンという場で繊細なピアノを奏で、貴族の女性たちを虜にしました。
ショパンと対照的に力強い演奏と強烈な速弾きで人気になったのがリスト(1811~1886)です。若い女性から人気の的となり、楽屋には握手を求める長い列が続き、そこにあったリストの飲み残しの紅茶を自分の香水瓶に入れて持ち帰るご婦人までいたそうです。いわばアイドル的な人気ですね。
リストがピアノの指テクで魅了したとすると、ヴァイオリンではパガニーニ(1782~1840)が速弾きテクニックで聴衆を魅了していました。
このようなリストやパガニーニをはじめとする名人芸・超絶技巧のパフォーマンスがブームとなり、名演奏家はヴィルトゥオーソと呼ばれました。
ダンスミュージック
さて、自ら踊るための「ダンスミュージック」(社交ダンス)としては、ワルツ、ポルカ、カドリーユといったジャンルがウィーンで人気となっていました。ワルツは言うまでもなく3拍子の舞曲のことですね。ポルカはチェコに発生した2拍子の舞曲で、ヨーロッパ社交界に広がりました。カドリーユは8分の6拍子や2拍子などの複数のパートから構成され、4組のカップルがパートナーを入れ替えながら踊っていくというものです。
このような社交ダンス界へは、ヨハン・シュトラウスⅠ世(1804~1849)やランナー(1801~1843)が競い合うように作品を書き、発展していきました。
こういった19世紀前半のヨーロッパの上流階級で流行した舞曲は、植民地支配をしていたラテンアメリカ圏へも伝わり、そこで黒人音楽の打楽器的なリズムと独自に融合し、ラテン音楽の発生へと繋がっていくことも意識しておくと良いでしょう。
ドイツでは
さて、このような華やかな「マス・カルチャー」を、快く思わなかった人々がいます。ベートーヴェンの意志を受け継ぐドイツ地域の音楽家たちです。
文化的に長らくイタリアとフランスに負けっぱなしのドイツ人たちは、「美学」という武器をもって自らを崇高な音楽民族としてまとまろうとしていました。ヴィルトゥオーソが活躍する「ミーハーな娯楽」に反発し、「学識ある聴衆」を対象とした演奏会を確立していきました。
ここで、「真面目派」と「娯楽派」がはっきりと分化したのです。
こうして、フランスやイタリアに対抗するため、自国の大作曲家たちを称揚する空気が生まれます。発掘作業によって「大作曲家」「名作」「批評」「伝記」という概念が誕生し、その文化が音楽学校で「保存」「教育」されていきました。こんにち我々が学んでいるクラシック音楽の考え方は、この流れにあるものです。
この時代、メンデルスゾーン(1809~1847)が、バッハの「マタイ受難曲」を再演します。
とっくの昔に忘れ去られていた100年以上前の人物であるバッハですが、遺った楽譜がまわりまわってメンデルスゾーンの祖母の手に渡っており、クリスマスプレゼントとしてその楽譜をプレゼントされたメンデルスゾーン少年。これを演奏会で披露したことで、「バッハ」は「再発見」されたのです。バッハは晴れてバロック時代を代表する「(ドイツ)音楽の父」となったのでした。
また、1835年にメンデルスゾーンは演奏会のプログラムを改革していきます。「歴史的演奏会」を開き、バッハからベートーヴェン、ウェーバー、シューベルトに至るまでのドイツ音楽の流れを紹介します。
このnoteでここまで、古代からイタリアのルネサンス・フランス宮廷でのバロック・ロココを踏まえて音楽史を見てきた僕たちの視点では、このメンデルスゾーンの紹介する音楽史は「ドイツ人の一視点に過ぎない」ということがお分かりかと思います。しかし一方で、このドイツ視点の物語が、今でも「音楽の教科書」に載っている音楽史のもとになっていることにお気づきでしょうか。不思議ですよね。そしてこれこそが、“真面目な”クラシックと“ミーハーな”それ以外のポピュラー音楽という、ジャンル間の摩擦の源流だと考えられます。
しかし、やはり数の上では「娯楽派」にかなわなかった、ニッチな「真面目派」。そこでドイツ人たちは、持ち前の「美学」を用いて、「倫理的批判」を展開するのでした。
そしてこの時期、音楽批評というものを発展させたのがシューマン(1810~1856)です。大衆向けのオペラや、名人芸ばかりの器楽より、「質の高い」ものを広めたい、との思いを持って、1834年「音楽新報」を創刊し、評論を発展させていきます。
※ちなみにシューマンはショパンのことは絶賛しており、彼の音楽批評のデビュー稿も「諸君、脱帽せよ、天才だ!」の見出しが有名なショパン評です。しかし、ドイツ人特有の崇高な美学をもとにした大仰な深読みは、ショパンは相手にしていなかったどころか、的外れの批評に「ありがた迷惑」とすら感じていたようです。
「美学」という学問は、
「真面目な音楽/娯楽音楽」
「芸術音楽/軽音楽」
「高級なもの/低級なもの」
という、上下関係を伴った価値的な差別を含蓄する考え方です。そしてこうした発想はすべて19世紀ドイツで出来上がったものです。「独創性」「作品」「天才」という概念もすべてこの時代に確立したものです。そもそも18世紀までは「芸術」というカテゴリー自体がありませんでした。
この時代ドイツでは、「美」という独自の価値を音楽に与えることで、イタリアやフランスにマウントをとって地位を保証していくことがテーマでした。
「クラシック」は「高級」であり、娯楽に欠けている崇高な精神性をともなっている、という印象は、今でも何となく受け入れてしまいがちですが、こうした発想は19世紀の産物であり、しかも音楽の場合、かなり強引な二分法によってつくられたものなのです。
バッハやモーツァルト、ベートーヴェンの「伝説」も、すべてこの時代の産物です。かつて信じられていた神話は研究によって覆されてきていますが、それが「本当か嘘か」という問題よりも、この時代に「巨匠の伝記」が次々と出版されたという事実自体が重要です。
パガニーニやリストといった「名人芸スター演奏家」に対抗するためには、「演奏」ではなく「作品」を聴きに行こう、というように、「作曲家」にフォーカスを当てるため、作曲家たちを「ヒーロー」に仕立てる必要があったのです。
たとえば、ベートーヴェンには若いころの肖像画や優しい顔をした肖像画もありますが、「過酷な運命に立ち向かった意志の人」というイメージを強調するために「男らしい、力強い絵」が選ばれて有名になりました。
「ヒーローたちの人生が劇的であってほしい」という願望が、「ロマン主義精神」であり、ドイツ・ロマン主義とは「ゲルマン民族のナショナリズム運動」のことなのです。
さてさて、音楽的にベートーヴェンの交響曲的側面・崇高な精神性を強調させて発展させた人物にはベルリオーズ(1803~1869)がいます。1830年に発表した「幻想交響曲」は、全5楽章からなり、それぞれに「標題」がついていました。楽曲の冒頭にはプロローグとなるストーリーが書かれていて、聴衆側はその物語に則ったある種の「制約」を受けて聴くことになります。
これは「標題音楽」のはじまりとされ、次の時代へ受け継がれていきます。。。
ついに風向きが変わり始める1840年代
1840年代に入ると、ヴィルトゥオーソブームは飽きられはじめました。「真面目派」の論調は日増しに強くなり、音楽界の論壇は彼らの論調が支配するようになります。そして、それを境にして、ドイツ以外の演奏会でも「過去の音楽家」が急速に増加し始めます。
“いつもの「軽い曲」ではなく、愛好家のために「重い曲」を取り上げます”
などという言い訳付きで、「クラシカルコンサート」が開催されたりもしました。そこで、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ウェーバー、シューベルトらが、「古典派(クラシック)」=偉大な人々、と位置付けられたのです。
「真面目派」は聴衆を自らの陣営に引き込んで主導権をとることに成功し、今日の「巨匠の芸術に精神を集中させて静かに鑑賞する」というクラシック演奏会の規範が確立されていきました。
今回登場したショパン、リスト、シューマン、メンデルスゾーンらは皆、1810年ごろ生まれた人物ですが、彼らと同世代の重要人物で、もう一人、ワーグナー(1813~1883)という人物が居ます。彼はまだ下積み段階で、このあと本格的に台頭してくることになります。
ドイツのライプツィヒ生まれのワーグナーもまた、ベートーヴェンの作品に感激を受けて音楽の道を志した人物ですが、1830年代は貧困に苦しみ、夜逃げ同然で1839年にパリに移り、小説や歌劇を書いていました。しかし認められることはなく、フランスに悪印象を抱くようになりました。
1840年代に故郷のドイツ地域(ザクセン王国・ドレスデン)に戻ったワーグナーはようやく成功します。1846年には演奏会の曲目としてベートーヴェンの「第九」の演奏を計画。当時「第九」は演奏されることも少なく、忘れられた曲となっていたため猛反対を受けますが、徹底した準備によって大成功し、以降「第九」は名曲としての評価を確立することになりました。このように、ここでも巨匠の作品の「再発見」と「復活」が起こっていたのです。
その後のワーグナーの功績はまた、次の記事で紹介します。
さて、ドイツの音楽地位向上に大きく貢献した音楽雑誌「音楽新報」ですが、シューマンは「作曲に専念する」として1843年に音楽新報の編集をおり、次の編集はブレンデルが担当することになりました。そして彼もまたワーグナーに関連して、次の時代の記事で細かく紹介することになります。
世界史情勢としては1848年に「1848年革命(二月革命)」が起き、ヨーロッパ各地で革命が相次いでいきます。ヨーロッパ情勢が一変し、ロマン主義の空気もまた、ここから変わっていくことになります。世界の政治思想に大きな影響を与えた、マルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』が発表されたのも1848年なのです。
この1848年の前後には、音楽史的にも
・1847年 メンデルスゾーン 没。
・1848年 リストがリサイタルを引退し、作曲に専念。
・1849年 ショパン 没。ヨハン・シュトラウスⅠ世 没。
と、一時代の終焉と世代交代を思わせるような出来事が起こっていったのでした。
イギリスの娯楽史
・・・と、ここまでの話がすべてヨーロッパの大陸サイドの上流階級の話でした。イタリア、フランス、ドイツを中心としたヨーロッパのブルジョワ音楽をめぐるストーリーがクラシックの「正史」ですが、このころイギリスやアメリカではどうだったのでしょうか。こちらはポピュラー音楽史の重要なルーツとなっていきます。
まず、イギリス・ロンドンは、18世紀からパリと並ぶ音楽都市で、コンサートも多く開催されていました。上流階級向けの娯楽としては、巨大娯楽場プレジャーガーデンが誕生し、オーケストラによるコンサートのためのホールや社交ダンス場、劇場などが集結していました。(遊園地の起源といわれています。)また、民衆娯楽の場としては、定期開催される商取引の場「市(フェア)」での見世物(サーカスやミュージックブース)が盛んだったそうです。
19世紀に入り、「酒と演し物」を売り物をする娯楽場の数が増加の一途をたどっていきます。イギリスには上流階級の紳士限定の「ソング・アンド・サパー・ルームズ」というダイニングクラブがうまれました。(「エヴァンス」、「コール・ホール」「サイダー・セラーズ」の3つが人気。)
また、コメディなどの軽い演劇を見る劇場として「サルーンシアター」、大衆向けではパブでの素人演芸「フリー・アンド・イージー」が人気になります。
こうして、ジェントルマンからごく普通の労働者に至るまで、音楽や演し物を人々は享受していました。
1832年、選挙法の改革後、労働者による運動が高まり、1838年頃からの「チャーチスト運動」が盛り上がるようになると、行政当局は警戒感を覚えるようになり、人々の集まる「フリー・アンド・イージー」にも規制の手がかかってしまいます。上流階級は酒の代わりに団体旅行や読書などといった趣味を労働者たちにも与えて、生活を矯正させようという動きがあり、行政もこれを支持して民衆の余暇時間までもを取り締まろうとしていきました。
1843年、劇場法が改正され、公式な劇場のみで上演が許されていた「シェイクスピア」などの正劇を、小劇場にも上演許可する代わりに、酒類の販売を禁止。行政当局としては、酒の販売をあきらめて芝居のライセンスを申請してほしかったのですが、フタを開けてみれば、芝居の上演をあきらめて「酒と歌と踊り」を選ぶ経営者がほとんどでした。
行政当局は、急増したパブのライセンス申請を却下の応酬で応えます。そこで、劇場でもパブでもない、新しい施設が必要となったのです・・・。
ヨーロッパ大陸では1848年、革命の嵐が吹き荒れましたが、対照的にイギリスではチャーチスト運動は収束。その後1852年に「ミュージックホール」という施設が誕生しますが、そのお話は次回。
アメリカ黒人奴隷の音楽と、ミンストレルショーの誕生
18世紀末にイギリスからの独立を果たしたアメリカは、「本国」とは別の複合文化として、ハイ・カルチャーとはずれたところでアメリカ的特徴が定着していきました。
既に一般化していた黒人奴隷制度ですが、19世紀にはイギリス産業革命の影響による綿花需要の拡大で、プランテーション農業のための奴隷の必要性がさらに高まっていきました。過酷な労働使役に耐える中で、黒人たちが時に叫び、時に踊り、時に祈り、と、発展させていった文化が、のちのアメリカ音楽に影響していきます。その音楽は大きく3つに分けられます。
これらはプランテーションソングと呼ばれました。
それとは別に、黒人音楽の娯楽的な側面も白人に面白がられました。黒人たちはバンジョーやフィドルを弾きこなしていたのです。アメリカでは、国内産業の発達や交通網の整備により、都市化が進むと、都市の新しい社会階層を対象とした娯楽文化が求められるようになります。
1843年、ヴァージニア・ミンストレルズという劇団の公演で、顔を黒く塗った白人芸人が、バンジョー、バイオリン、打楽器、タンバリンをかかえて寸劇を演じたのをきっかけに、ミンストレル・ショーが誕生、人気を博します。イタリア・オペラをしのぐようになり、アメリカ音楽史の非常に重要な位置を占めることになります。
ミンストレル・ショーは、雑多な出身地や困難な生活を乗り越え、均一化しつつ、一方で特徴や習慣の違いを演劇に取り込み、それを利用して仕掛けを生みました。アフリカンアメリカンだけでなく、アイルランド人、ユダヤ人、ドイツ人など、他の人種を示すキャラクターも黒塗りで演じられました。つまり、単なる黒人蔑視だけではなく、白人たちが共通のアイデンティティを育むツールとして、「黒塗り」が利用されたのです。
ここで、イギリス民謡系のフィドル音楽が黒人風のシンコペーションで表現されたことにより、のちのラグタイムのシンコペーションのリズムなどに繋がっていきます。ミンストレルショーの一節で、景品のケーキを目指して競争させられる黒人たちのようすを茶化した「ケークウォーク」というダンスは、のちに独立し、ドビュッシーの「ゴリウォーグのケークウォーク」というクラシック作品にまで影響するまでになります。
1830年代~40年代にかけて、ヨーロッパの上流社会ではエリート文化が確立されました。一方で、イギリスやアメリカでは産業革命を経て都市空間が出現し、ミドルクラス下層部や労働者階級上層部にもカフェ、パブ、ダンスホール、アマチュアオーケストラ、ブラスバンドなどが親しまれました。産業革命以前の農村社会では、貴族から下層へのトップダウンで文化が流れ、「音楽」という一般名詞でしか呼ばれなかったものが、ここでも「上流」と「下流」に分断され、「クラシック」と「ポピュラー」の分かれ道になったとされています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?