音楽と知識とカーストと
自分は音楽が好きで、小さい頃から息をするように鍵盤と触れ合ってきた。
それなのに、どの界隈に対しても知識が足りず、話に入れず、共感できなかった。
流行りの音楽、マニアックな世界、サブカルチャー、ハイカルチャー、、、
それぞれの場所に、それぞれの聴き方・楽しみ方があって、それぞれの立場の人が、それぞれの「良い音楽」という「正義」を盲信している。僕はそのどれにも染まりきれない。
どれが「正しい音楽」で、どんなものが「良い音楽」なのか。そんな問いに、1つの正解なんてものはあるはずがない。
けれど、自分が「音楽が好き」である以上、それぞれの場所に点在しているそれぞれの音楽文化やルールを全部知りたい。すべて分かりたい。楽しめるようになりたい。そうじゃないと自分は所詮「音楽を知らない人」「音楽好きではない人」「ニワカ」になってしまい、それだと何を言っても何の説得力も無いから。
そういう疎外感を感じて過ごしてきた。
僕には絶対音感があり、ピアノやエレクトーンがそこそこ演奏できた。毎年の発表会を楽しみに練習に打ち込み、コンクールでも地区大会に行ったり行けなかったりで一喜一憂してきた。ヤマハのグレード試験ではハイグレードまで楽勝で取得。
無理矢理やらされたなんてことは全くない。苦痛もなく、本当に息をするように楽器に没頭してきた。音楽を自分から楽しんでいて、自分はこんなにも音楽が大好きで、音楽のことばかり考えている。
それなのに、自分には音楽を語る資格がない。
説得力が無い。伝わらない。
みんなは特定の価値観にたった1つハマるだけで音楽の話をする権利があるのに、自分はどこへ行っても「音楽を知らない側の人」「ニワカ」でしかなかった。
だから、みんなのそれぞれの視点の「良い音楽」を全て知っていき、自分の音楽の話も説得力を持って対等に話せる権利を得たい。
そう思うようになっていったのだ。
学生時代の自分のカーストは「真ん中グループの1番下」。
スポーツができないしキョドるから、陽キャやヤンキーの奴らからは、陰キャ・オタク側に見えていただろう。
かといって、オタク文化やサブカルに詳しいわけでも無い。教室の隅っこで固まってそういう話をするより、もっとワイワイ戯れたりするほうが良かった。
音楽の悩みと同じで、「どっち側へ行っても自分は別側の人間なのだろう」という疎外感。
普段はそれなりに仲良くしてくれる真ん中グループのみんなは、体育やスポーツをやるときは陽キャ側へ行ってしまう。そうやって取り残されたときだけオタクな人たちの輪に入ろうとしても、オタクノリが合わない。
逆に、文化祭などの行事やイベントのときは、真ん中グループのみんなはやる気を出さず、存在感を隠し、陰キャ・オタクサイドへ行ってしまう。僕としては積極的に取り組んでそういう行事を楽しみたい感情があるのだけれど、そういうときだけ陽キャの人たちの輪に入ろうとしても、ヤンキーノリが合わない。
自分には陽キャ・ヤンキー文化も、オタク・サブカル文化も無い。それなのに、唯一の武器である「音楽」すら、立場が無い。
自分は空っぽな人間なのか。
そんな悔しさが原動力となって、
「せめて音楽だけは詳しくなりたい、せめて音楽のことだけは説得力を持って話せるようになりたい、音楽のジャンル一覧を知りたい。音楽のジャンルとは何なのか?……それには音楽史を調べていくしかない」
と、ひたすら思考を組み立てていった。
その結果の1つが、クラシックとポピュラーを繋げた音楽史だ。
ここまでたくさん調べて、ここまで勉強をして、ここまでしんどい思いをして、ようやく自分もみんなと同じように「音楽が好きな人間」として人並みに音楽の話をする権利が得られるんだ。
ただ、クラシック好きとか、ジャズ好きとか、ロック好きとか、ヒップホップ好きとか、クラブミュージック好きとか、特定の1つの価値観の立場に染まったわけではないし、それを相対化して見る視点にどんどん陥っていったから、「音楽」という大きな主語で語っているのにも関わらず特定の1ジャンルの視点でしか捉えられないような奴らのことは大嫌いになってしまった。それでも、僕は本当に音楽が好きだ。
僕には音楽の各ジャンルそれぞれの中に、好きな音楽と苦手な音楽がある。それぞれの文化に特別な楽しみ方とクセの強さがあって、みんな違った良さ(悪さ)がある。それらをひっくるめて、音楽を総合的に肯定したいのだ。
でも、自分に合わない感覚もひっくるめて肯定していく、という作業は本当にしんどいしカロリーを使う。
自分は何かを吸収したり咀嚼するのに時間がかかりすぎる人間で、キャパがとてつもなく少ない。本当は知識なんて増すだけで良いのに、受け皿の小ささに嫌気が差す。
音楽史の勉強やnoteでの投稿が仕事に繋がっているわけでもないし、繋げる気もない。コンプレックス的な興味と純粋な知識欲のためにただただやっているけど、そんなことをやっているうちに、ますます社会から置いていかれている気がするし、一体何のためにここまで生きてきたのだろうという気持ちにもなる。
最近、アニメを見始めた。思えば、小さい頃は、たまたまテレビで流れていたアニメを何となく何本かは追って観ていたけど、思春期以降これまでほとんど「作品を追う」なんてことをしたことがなかった。
きっかけはやはり、音楽文化のことをもっと知りたかったから、『ぼっち・ざ・ろっく』『推しの子』をまずは観てみた。それから、『推しの子』と同じ作者ということで『かぐや様は告らせたい』も観た。
どれも一気見してしまった。とても面白いと思ったし、圧倒された。
音楽面で言うと、『ぼっち・ざ・ろっく』のアジカン的な邦ロックバンド観や、『推しの子』を通じてわかる、YOASOBIの凄さ。そしてもちろん作中のテーマである「アイドル」や「エンタメ業界」、「演じること」についても。
今の「リアル」は圧倒的にこっちだな、と、思った。
自分は何が悲しくて昔のことをチマチマ勉強しているんだ、と、自分のやっている音楽史の勉強が、馬鹿らしくもなった。コンプレックス的な興味がゾンビ化しすぎた。
そして、漫画やアニメというのは、こんなにも感情を揺さぶってくるコンテンツなのか、と、びっくりした。人間や社会に対する視点が増えたり、共感したり、考えさせられたりする。
こんなものをたくさん摂取して生きている人々は、きっと解像度高く社会や人間を捉えているのだろうな、と思った。
自分ももっとたくさん吸収していかないといけないんだろうな。と思ったけど、やっぱりキャパが少ない。没頭して、お腹いっぱいになってしまって、咀嚼するのに時間がかかる。
いくつかの作品を観ただけで、もう新しい作品に次々手を出していこうという体力が無い。歳のせいではなく、昔からそうなのだ。音楽だってそうだった。各ジャンルで常識とされている名曲や名盤をすべて身体に入れていく作業はものすごく疲れたし時間がかかった。
このペースで文化を咀嚼しながら吸収していると、人並みの知識量・密度になれたころには老人になってしまっているだろう。
だけど、だから、しんどくても勉強でそれを補完していく。今は日本音楽史を追っている。西洋音楽史がある程度の目標と落としどころに辿り着けたのだから、日本音楽史もゴールは必ずある。早くケリをつけたい。
そして、今まで書いたような苦しみ悲しみも全部、それ自体を音楽にもする。そういう形でしか自分は救われないと思う。