【分野別音楽史】#08-4 「ロック史」(1970年代)
『分野別音楽史』のシリーズです。
良ければ是非シリーズ通してお読みください。
ここまでの記事でも繰り返し主張している通り、筆者のスタンスとしては「ロック史」というのは数あるポピュラー音楽史の中の単なる1分野、という位置づけです。
特に、70年代はロックのサブジャンルが非常に細分化して語られる一方で、ソウル、ファンクなどのいわゆる「ブラックミュージック」と呼ばれる分野も盛り上がり、さらに現在のクラブミュージックにつながる源流としてのディスコミュージック、そして21世紀の中心ジャンルとなったヒップホップもこの時期に生まれ、ジャマイカではレゲエも発生しています。このあたりは「ロック史」の後に別途記事にしていきますのでお待ちください。また、既に触れたジャズ史でも70年代は大きな転換点となっています。
巷で「ポピュラー音楽史」というとイコールで「ロック史」ということになりがちですが、この記事の内容だけではなく、同時期の他の分野の系譜も意識しながら視点の移動をお楽しみいただければ嬉しいです。
◉ソフトロックとシンガーソングライターブーム
1969年夏の伝説の「ウッドストック・フェスティバル」では事実上フリーイベント状態で40万人もの観客を動員しましたが、1970年に同様に「愛と平和と自由」を掲げてイギリスのワイト島で開かれたロックフェスでは、ウッドストックを上回る60万人もの観衆から入場料がきっちり徴収されました。それに対して観客たちは反発し暴徒化してしまいました。
イベント終了後には、大量のゴミや汚物、壊された施設の残骸が残され、ヒッピーたちが抱いていたラブ&ピースの幻想は崩壊したのでした。
アメリカの抱える社会問題は解決されず、引き続きデモや行進が行われていましたが、ロックとの結びつきは弱くなっていました。
また、1969年12月のコンサート中に殺人が発生した「オルタモントの悲劇」から、1970年の4月にはビートルズ事実上の解散、9月にはジミ・ヘンドリクスがドラッグの過剰摂取により死亡、さらに10月にはジャニス・ジョプリンも死亡するなど、60年代後半の熱狂はあっけなく分解していき、1970年はまさに「祭りの終焉」という雰囲気に包まれていました。
1970年という年を象徴するようなヒットとなったのが、サイモン&ガーファンクルの「明日に駆ける橋」と、ビートルズの「レット・イット・ビー」でした。どちらもゴスペルをベースにした救済の歌で、当時の若者たちのムードがよくあらわれているといえます。
60年代後半の地点で、サイケデリックロックの熱狂の裏ではフォーク・ロックがカントリーとも結びつきを強めており、カントリー・ロックの発生とされます。70年代に入り、LSD蔓延に疲れたロックミュージシャンたちも上記のようにやや落ち着いたサウンドを求めはじめ、ブルースなどアメリカ土着の音楽のイメージへ原点回帰の傾向を見せた音楽はルーツ・ロックとも呼ばれました。こうして、70年代前半に人気となった、フォークロックの流れを持つ穏やかなサウンドは概してソフト・ロックなどとも呼ばれました。
70年代に入ると、ビートルズの元メンバーであるジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターをはじめとして、ソロ活動を開始するアーティストが目立ち始めます。1968年にフォーク・シンガーが集まって結成された「クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(CSN&Y)」も、フォークロック~カントリーロック~ソフトロックの傾向を持つバンドとして人気となるも、1970年に空中分解し、ニール・ヤングのソロ活動が目立つようになります(CSN&Yはその後結局、何度も集合・離散を経ながら、様々な派生形態をとって活動しています)。
60年代がグループ活動を軸にした「連帯の時代」であったとすれば、共同体幻想が崩れた70年代はソロ活動が台頭する「個の時代」だったといいます。そういった流れの中で、70年代初頭に多彩なシンガー・ソングライターたちがヒットを飛ばし、脚光を浴びることとなりました。
また、シンガー・ソングライターが集まったユニットとして、イーグルス、オーリアンズ、ロギンス&メッシーナなどが結成されたほか、兄妹デュオのカーペンターズや夫妻デュオのキャプテン&テニールなどの男女デュオも、多くのヒットを飛ばしました。
また、イギリスでは、アメリカのルーツミュージックだけではなく、自国の民謡=バラッド(トラディショナルな伝承歌)に目を向けるロックアーティストも登場し、ブリティッシュ・フォークやトラッド・フォークとしてイギリスのフォークロックの1つの潮流となりました。フェアポート・コンヴェンション、ペンタングル、スティーライ・スパンなどが例として挙げられます。
◉ハードロック
ブリティッシュ・インヴェイジョンの頃に活躍したイギリスのバンド、ヤードバーズ(活動期間: 1962年 - 1968年)は、その活動期間中に何度かメンバーの入れ替えがありましたが、70年代のロックの礎をつくった三大ギタリストが皆、ヤードバーズに在籍していたことで知られています。
その3人とは、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジです。
エリック・クラプトンはヤードバーズ脱退後に、クリームというバンドを結成していました。ジェフ・ベックは、自身の名を冠したジェフ・ベック・グループで活動。ジミー・ペイジはレッド・ツェッペリンを結成します。
彼らの音楽は、アンプやエフェクターによって歪ひずませた大音量のギターや激しいバンド隊の演奏が特徴で、「ハードロック」というジャンルとして大きな影響力を持つようになります。
ハードロックの初期とされる1960年代後半に、サイケデリック・ロックやブルース・ロックの混合物とされ、1970年代前半には「ハードロック」の呼称が定着して全盛期を迎えました。バンドの演奏やエレキギター奏者の個性が注目されるようになり、ギターヒーローに憧れる若者が大勢現れました。
イギリスのメロディ・メイカー紙の人気投票にて、それまで人気の頂点にいたビートルズを引きずり下したのがレッド・ツェッペリンだったのです。これは世代交代・新しい時代の到来を感じさせる象徴的なできごとでした。ハード・ロックはイギリスのバンドが中心でしたが、アメリカではキッスやエアロスミスなどのバンドが成功しました。
◉ヘヴィメタル
こうしてさまざまなスタイルのハードロックバンドが登場した中で、より重厚感を重視したサウンドをつくったのがブラック・サバスです。彼らのスタイルがヘヴィメタルと呼ばれ、ハードロックから変異したジャンルとして誕生しました。ハードロックとの境界は明確ではないため、両者を並べて「HR/HM」と表現することもしばしばです。
(※なお、日本では80年代にテレビ番組で「ヘビメタ」という言葉が馬鹿にするニュアンスで使われてしまって以降、メタルリスナーにとってヘヴィメタルは「ヘビメタ」と略されると、蔑称だと受け取られてしまうようなので、「メタル」と呼ぶなどして、気を付けましょう。)
◉プログレッシブ・ロック
1960年代後半のサイケデリック・ロック期に発生した「実験精神」や「コンセプトアルバム」の追求といった方向を強調して継承した流れも登場します。クラシックやジャズなどの「ハイカルチャー」と、ロックの「カウンターカルチャー」の壁を取り払い、より長大・壮大で複雑なサウンドの追求と、アルバム全体でのコンセプトの表現に重きが置かれました。そのようなサウンドはプログレッシブ・ロックというジャンルになっていきました。
5大プログレバンドとしてキング・クリムゾン、イエス、ピンク・フロイド、ジェネシス、エマーソン・レイク&パーマーが有名です。また、カナダのバンドではラッシュも挙げられます。
◉グラムロック
1970年代前半、ラウドなハードロックや、演奏技術や長尺曲が特徴だったプログレッシブ・ロックが流行していた中で、それらとは異なった中性的なファッションやメイクを施し、耽美にショーアップされたステージングで、ポップなメロディーを演奏するミュージシャンたちも登場し、イギリスで人気となりました。
これらは、魅惑的であることを意味する「グラマラス」という語から取って「グラムロック」と呼ばれました。グラムロックは音楽性よりもルックスやステージングなどの面で区別されました。日本のヴィジュアル系の源流にもなっています。
デヴィッド・ボウイ、Tレックス、マーク・ボラン、モット・ザ・フープル、スレイド、ゲイリー・グリッターなどが代表的なアーティストです。
◉複合的なロックサウンド
70年代に活躍したバンドには、他にクイーンが挙げられます。クイーンは、音楽的嗜好の異なるメンバー全員が作曲に参加したため、その作風が多岐にわたります。そのためか、ロック史の中での位置づけが難しく、人気があったにもかかわらず評論されにくいそうです。
しかし、クイーンの多くの曲に共通して見られる特徴として、積極的な多重録音の活用が挙げられます。ギターを何度も重ねて録音した「ギター・オーケストレーション」が特徴となり、初期の作品にはわざわざ「ノー・シンセサイザー」という注意書きまでクレジットされていたと言います。1975年発表の「ボヘミアン・ラプソディ」では、コーラス部分でもオーバーダビングを繰り返して200人分以上の「声の効果」を出そうとしています。1977年の「We Will Rock You」での有名な足踏みと手拍子のリズムも多重録音でレコーディングされており、ドラムや打楽器無しでビートを産み出すことに成功しています。
また、「ボヘミアン・ラプソディ」は、プロモーションビデオもインパクトを与えました。60年代にビートルズが新曲のリリースのたびにテレビ出演しなければならなかったのを面倒くさがり、演奏シーンとイメージ映像を予め作成してテレビ局へ提供したのがミュージックビデオのはじまりだという説が一般的ですが、あらかじめプロモーション目的で撮影されたのはクイーンのボヘミアン・ラプソディが初だと言われています。中盤のオペラ部分ではメンバーが暗闇の中で歌うというミステリアスな世界観が描き出されていて、音楽界に衝撃を与えました。
クイーンは、ギターの厚みを強調したハードロック要素、複雑な構成やクラシック的要素を取り入れたプログレッシブロック要素、芸術面やビジュアルなどのグラムロック的要素など、70年代の複数のロックの特徴を合わせ持つバンドだといえます。
プログレッシブ・ロックとハードロックの要素が合わさった分野として登場した潮流としては、「アメリカン・プログレ・ハード」という言葉があります。これは、日本での評論で使われた言葉であり、正式なジャンル名としては使用されないようですが、ボストン、カンサス、ジャーニー、スティクス、フォーリナー、REOスピードワゴン、TOTO、クラック・ザ・スカイなどのバンドがこの分野だとされます。
高度な演奏技術を駆使し、シンセサイザーの音色や変拍子を取り入れたサウンドを特徴として、1970年代中盤から存在感を強めましたが、次第に音楽性はポップになっていき、現在では前衛的な位置づけというよりかは、むしろ1980年代のいわゆる「商業ロック」的なサウンドの源流だとされています。
◉サザンロック
各地で多様なサブジャンルが生まれる中で、アメリカ南部ではブギウギ、ブルース、カントリーなど、再度「ルーツ・ミュージック」の要素を重視して強調する音楽が台頭しました。
1960年代末~70年代初頭に、この潮流につながる「スワンプ・ロック」と呼ばれる音楽が登場していました。クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(略称CCR)、レオン・ラッセル、デラニー&ボニーなどです。
その後、ブルースロックやカントリーロックが混合していくような形で、アメリカ南部出身の「サザンロック」として、オールマン・ブラザーズ・バンド、アトランタ・リズム・セクション、シー・レヴェル、レーナード・スキナード、モリー・ハチェット、ブラック・フット、38スペシャル、ウェット・ウィリー、ZZトップといったバンドが人気となりました。
◉ハートランドロック
アメリカ中西部(シカゴ 、クリーブランド 、インディアナポリス、カンザスシティなど)はアメリカの農業と工業を担う心臓部=「ハートランド」と呼ばれ、この地域で好まれたロックは「ハートランドロック」と呼ばれたりしました。労働者や農民たちの喜び・悲しみを歌ったロックが人気となったのです。ブルース・スプリングスティーン、ボブ・シーガー、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ、ジョン・メレンキャンプ、ジョン・ハイアット、メリッサ・エスリッジらがこの分野の代表例です。
◉パンクロック
50年代、ロックンロールの登場に刺激されて自宅のガレージで練習を行うアマチュアバンドが登場し、ガレージロックと呼ばれていました。60年代初頭のティーンポップの台頭で減速するものの、ブリティッシュ・インヴェイジョンのインパクトとともに勢いを取り戻し、アマチュアバンドブームが起こっていたのでした。
当時このようなガレージロックはアマチュアサウンドがほとんどであり、多くは商業的成功とは無縁でしたが、そんな中で際立っていたバンドがいくつか居たのでした。それがMC5とストゥージズ、そしてニューヨーク・ドールズでした。技巧よりもアマチュア精神を重視したこれらのサウンドが、今では原始パンクと呼ばれ、70年代のパンクロックの源流となったのです。
1973年、ニューヨークに『CBGB』というライブハウスがオープンし、「カバー曲禁止、オリジナル曲であればどんなバンドも出演可能」という条件によって、新進気鋭のバンドたちが集まり始めたのでした。ラモーンズ、テレヴィジョン、パティ・スミス、トーキング・ヘッズ、ブロンディらが代表的なバンドで、「NYパンク」と呼ばれました。
NYパンクの勢いはイギリスに伝播し、ダムド、クラッシュ、ザ・ジャム、バズコックスなどのバンドが登場しました。
さて、そんなとき、ニューヨーク・ドールズのマネージャーだったマルコム・マクラーレンが、ニューヨーク・ドールズのアイデアをイギリスに持ち帰ります。「セックス」という名前の服屋を経営していたマクラーレンは、そこにたむろしていた不良の若者たちにバンドを結成させました。それが、セックス・ピストルズです。1975年のことでした。顰蹙を買うような過激な歌詞、反社会的・スキャンダラスなパフォーマンスといった、いわば「炎上商法」によって彼らは大きな話題を攫さらうことに成功したのです。
カントリーロックのようなソフトで大人なサウンドにも飽き、ハードロックやプログレッシブ・ロックなど「楽器の技術を必要とした演奏」「長くてよくわからない難しい楽曲」「高度な機材を使った商業主義」にも反発し、かつてのガレージバンドのような等身大の音楽を求めていた若者たちに、パンク・ロックは絶大な支持を受けたのでした。
一般的なロック評論でも「ロックがロックに反抗した」「反・技術偏重、反・商業主義」と称賛されたのでした。
しかし、このプロジェクトは述べたように、すべてプロデューサーのマクラーレンのビジネスの範疇であり、あらかじめ作られた戦略による、超商業的なバンドだったのです。1978年、メンバーの一人、ジョニー・ロットンがステージ上にて「騙された気分はどうだい?」という言葉を残して脱退、バンドは解散となりました。こうして、短い期間に強烈なインパクトを残したパンクは、ロック史に刻まれることとなったのでした。
狭義のクラシック史やジャズ史において、ここまで常に、歴史というものが「原始的なものから複雑化へ」という一直線上の軸で語られ、評価・定義され、その進歩が目指されていたことを、過去の記事からお読みの皆様はお分かりかと思うのですが、ロック史上ではパンクロックのように「原点回帰」「単純化」「稚拙化」が起こり、それが新しいジャンル、時代区分としてきちんと配置されている、ということが重要な点かと思います。「アマチュア性」と、「反商業主義」、そして「それを売りにしたビジネス」という矛盾性を孕はらんでいるのが、ロックの獲得した重要な特質だといえます。
さて、パンクロックはこのあと、「既存のロックへの反抗」という方向性が、ファンクやレゲエなどの他ジャンル、そしてシンセサイザーなどの新しいテクノロジーのサウンドなどと結びついて「ポスト・パンク」というジャンルに発展し、一般的に新しいシンセサウンドの音楽を示していた「ニューウェイヴ」という分野と同化していくことになります。
◉ジャズロックの扱いについて
ロック史として70年代を取り扱うにあたって、「ジャズとの融合」の動きもしばしば取り上げられます。その場合、ここまで紹介したようなハードロック、プログレッシブロック、パンクロック・・・といったロックのサブジャンルの1つとして並べられることが通常ですが、この動きを主導したのは、マイルス・デイビスやハービー・ハンコックといったジャズミュージシャン達でした。
「ジャズがロックを取り入れる」のと、「ロックがジャズを取り入れる」のでは、性質がかなり違います。マイルスからはじまる「クロスオーバー」「フュージョン」の発生は、どちらかというとジャズ史として大きなトピックであるため、ジャズ史の記事のほうをご覧いただければと思います。
逆に、ジャズ史の文脈だと扱いにくい、ロックの文脈としての「ジャズロック」といえる音楽もいくつか登場しており、それらをここで紹介したいと思います。代表的なアーティストは、シカゴ、ブラッド・スウェット&ティアーズ、チェイス、スティーリー・ダン、サンタナ、などがそれにあたります。ホーン・セクションをとりいれたロックミュージックはブラス・ロックと呼ばれたりもしました。