私自身の場合は、<私>それ自体を創出する力をこの<私>の方から探究する。つまり無限を有限それ自体の内部から探究するという方向に近いが、無限を有限に切り替える力としての自由を無限それ自体<>との関係において探求する。この点が永井哲学とも入不二哲学とも違う点
入不二哲学は有限を探究する場合にも無限それ自体の内部から探究する。永井哲学も無限を探究するがそれを有限それ自体の内部から不可能なものとして探究することになる。つまり永井哲学は物自体を残している。
本来不可能なことを可能にする作業に終わりはない。無限を有限に変える作業だからだ。しかし有限的な存在者である人間はそれにどこかで(今ここで)区切りをつけるという奇跡的な力を持っている。それが自由という力である。
見渡したところ、グローバリズムに真に対抗できる哲学はルソーとカントしかないようだ。テクノクラシーに対応したイノベーションまたはリニューアルが必要かもしれないが、その骨髄はそのままでも決定的な力を持っている。
誰かのためになることでも理解されないこともある。 長期的なスパンだったり、全体最適だとなおさらだ。 最近はそれもまたありのままなのだなと思うようになった。 そんな時は自分の好きな曲を聴いてロックになる。 音楽と同じできっと世界の誰かに届いている そう願って今日も取り組む!
「わかってる人にとってはビックリすることじゃなくて、知らない人がビックリするだけで、いつビックリするかの差でしかない」(某氏)→その通りだけど世の中には最後までびっくりできない人が一定割合いることも事実でしょうね。
哲学の力とは、今ここで、この私が世界の果ての彼方の無限遠点 (point at infinity)へと到達し、同時にその到来に出会う自由という力
拙稿『形而上学』は、永井 均氏の助言に従って「中高生ぐらい(まあまあ頭はよいけど知識はまったく何もない)を読者に想定して」(永井氏の言葉)リライトしていくことになります。かなり大変な仕事になりますが、これかはやって来る艱難の時代を前向きにサバイブしてやり遂げようと思います。
数学における極限操作とは不連続性を連続性へと切り替える変換操作である。それにより有限性から無限性が産出される。
「華開世界起」――華開き世界起こる 私たちが目覚めればまったく新しい世界が到来する
時空の直観を議論の前提にしながら殆どの哲学者/哲学研究者がそれに無自覚なのは驚きです。最先端物理学(量子重力理論)では時空を理論の背景/前提にできるかどうかが究極の問題になっているのと際立って対照的です。多分殆どの哲学研究者はこれの意味することを理解すること自体難しいと思います。