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才徳勇猛 臼杵鑑速(うすきあきすみ)

大友家の武将紹介で吉岡長増さんの後に紹介する武将となると臼杵鑑速さんでしょうか。生誕は1520年。死没は1575年。とされています。宗麟より10歳くらい歳上ですね。55歳くらい生きたのですね。大友一族の流れを持ち、大友義鑑、宗麟と二代に仕えた武将です。加判衆を務めて、豊後の三老にまで列せられています。主に外交方面で活躍しています。室町幕府との交渉、毛利との交渉、島津との交渉と大友家の外交方面を担当しています。

そうかと思えば戦国武将らしく多くの戦にも出陣。功を挙げています。対毛利、対龍造寺などでも活躍します。晩年は嫡男、統景に家督を譲り引退しています。

宗麟も鑑速の死後隠居しています。

幕府との繋がりがなくなり、京都が信長の支配下になり、外交が難しくなる中での臼杵鑑速を失ったのは宗麟最大の損失だと思われます。

生きていれば足利義昭の六ヶ国之凶徒の糾弾を受けずに済んだかもしれません。室町幕府の六ヶ国守護職の拝命が喪失することで龍造寺の台頭、島津の九州制覇が始まるのです。

更には、吉岡長増、臼杵鑑速の有能な外交官がいないので世間体を助言するものがいなくなり、宗麟はキリスト教の洗礼を受けたのかもしれません。離婚もしてますしね。

死後2年後に大友家滅亡のきっかけ、耳川の戦いがおきています。

立花道雪が耳川の戦いの敗戦後の手紙に吉岡長増、臼杵鑑速なき大友の政治は無道であると嘆いています。

また臼杵鑑速存命中は宗麟正室の兄、田原親賢の台頭を押さえていたようです。彼の死後、田原親賢の権力が増加。立花道雪が反対していたようですが宗麟に届くわけもなく、耳川の戦いにつながるわけです。

信長の野望では武力が低いんです。才徳勇猛の武将と評された武将なのでもう少し能力上げて欲しいところですね。

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ひでさん
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