第9話「筑前混迷」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

大友・毛利間の和睦がなった翌年の西暦1565年(永禄八年)6月17日、京都で変事がおきます。

足利幕府十三代将軍・足利義輝が、幕府相伴衆にして有力大名である三好義重(のちの三好義継)その重臣・三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)そして松永久通(松永久秀の嫡男)らに将軍御所を襲撃され、暗殺されたのです。

これを「永禄の変」と言います。

一般的には三好方が義輝を暗殺するために将軍御所を襲撃したと言われていますが、自分は御所巻き(御所を取り囲んで大名が自分の主旨を伝えること)中に将軍家側近と三好方の兵の間で衝突がおき、それが戦闘に発展、最終的に将軍暗殺に繋がったのではないかと思われます。

何れにしてもこの「永禄の変」の後、西暦1568年(永禄十一年)10月に足利義昭が将軍就任に到るまでの約3年間、将軍を暗殺した三好三人衆の間に内部抗争(何やってんだという気もしますが)もあり、朝廷、幕府共に「機能不全」に陥っていたと考えていいでしょう。

これは義輝によって一時的に強化された諸大名に対する足利幕府の将軍権力が、再び衰え始めたことを意味します。将軍権力の源泉は各地の大名同士の戦争に介入し、和睦させること、そして諸大名の任官要請に答えることでしたが、幕府の機能不全は幕府が介入した「和睦」の効力低下という付帯効果を地方に与えてしまいます。

毛利元就の暗躍

西暦1566年(永禄九年)11月、毛利元就は、尼子氏の本拠・月山富田城(島根県安来市広瀬町富田)を落城させ、尼子氏当主・尼子義久らは幽閉されました。戦国大名・尼子家の滅亡です。

これにより、毛利元就は、周防、長門、安芸、備後、石見、出雲、伯耆、美作、隠岐(山口・広島・島根県全域、鳥取県西部、岡山県北部)の九カ国を実効支配することになり、一代で中国地方の大大名に勢力を拡大したことになります。

第四次門司城の戦いの後、毛利と大友は足利将軍家の介入によって和睦しました。この和睦はどちらかと言えば毛利方にメリットが大きいものでした。それは、尼子攻めの最中に大友から攻撃されて挟み撃ちにあうのを恐れていたためです。

しかし、尼子攻めが完了し、山陽、山陰に大きな敵がいなくなると、和睦の意味合いも薄れたため、元就は九州に再び関心を持ち始めます。

毛利・大友の間の和睦は将軍義輝によって成立していましたが、前述の通り、将軍義輝は西暦1565年に暗殺され、この当時、将軍職は空席になっており、足利幕府が機能不全になっていました。

元就はこの虚をついて、まず、筑前・豊前の国衆を動かし始めました。

謀反勃発

第四次門司城の戦いの和睦により、宗麟は門司城以外の全ての城を支配しました。ですが、豊前、筑前の国衆の多くはもともと毛利に心を寄せていたため、宗麟と国衆の間は冷たい風が吹いていました。

筑前の有力国衆に高橋鑑種という武将がいました。大友家庶流・一万田氏の出身で大友家先代当主・大友義鑑の命で筑後高橋氏の養子に入り、高橋氏を継ぎ、義鑑の片諱を賜っています。

鑑種は大友家の重臣として数々の軍事活動に参加、宝満城(福岡県太宰府市内山)岩屋城(福岡県太宰府市浦城)の城督を務め、大宰府の管理を任されていました。しかし西暦1562年(永禄五年)、理由ははっきりとはわかりませんが、大友を裏切って毛利方に味方し、以後、ずっと毛利に臣従していました。

表面上、筑前、豊前は大友のものになってしまったので、鑑種も毛利から大友に主を変えますが、水面下では秋月種実、筑紫惟門、宗像氏貞などの有力国衆と連絡を密にし、大友家内部から謀反を勃発させる計画を立てていました。

西暦1566年(永禄九年)、鑑種の謀反の動きは宗麟の知るところとなり、鑑種は筑前だけでなく東肥前の国衆である龍造寺隆信にも助力を求めました。そして西暦1567年(永禄十年)4月、秋月種実が挙兵すると、龍造寺隆信も呼応して挙兵。続いて筑紫広門、そして鑑種が蜂起し、筑前は一気に混迷状態に陥りました。

これを裏で操っていたのが元就だったと言われています。

宗麟は鑑種の謀反は察知していましたが、肥前の龍造寺まで動くとは想定していなかったため、筑前守護職のメンツにかけてこの謀反の鎮圧を決意。

西暦1567年(永禄十年)7月、宗麟は戸次道雪(戸次鑑連改め)、吉岡長増、臼杵鑑速、斎藤鎮実ら譜代の家臣に主だった豊後、筑後の国衆にも参陣を命じ、大友家の主力約20,000の兵を以って討伐軍を派遣しました。

戸次道雪は高橋鑑種の持ち城である宝満城を攻略。臼杵鑑速は岩屋城を攻略。斎藤鎮実は筑紫惟門を自害させ、子・広門を降伏させるなど、優位に戦いを進めていました。

休松の敗北

同年8月、道雪は秋月種実の持ち城である休松城(福岡県朝倉市安見ヶ城山)を攻略。続いて種実の本拠・古処山城(福岡県朝倉市野鳥)に攻め寄せますが、守りが固く、戦線は膠着状態に陥ります。

そこへ、信じられない一報が届きます。
中国地方の毛利元就の本隊が九州に渡ってくるというのです。

この報に筑前、豊後、筑後の国衆は動揺し、自分の領地を守るためという理由で次々と戦線から離脱していきました。国衆の協力なくして直臣だけで戦闘を続行するのはリスクが高いと判断した宗麟は、道雪に豊後への帰還命令を出しました。

これを見逃す種実ではありませんでした。
9月3日、大友軍の撤退の動きを確認した種実は、12,000の兵を用いて大友軍に攻撃を開始しました。しかし、道雪はこれをあらかじめ事前に察知して、3,000兵を陣内要所に的確に配置して迎撃体制を整えていました。

道雪の本陣が合戦の舞台になると、戸次軍は防戦しますが、一方は撤退、一方は侵攻では勢いが違います。道雪は撤退準備を進めていた後陣の内田鎮家らに軍旗をあげさせて「援軍がきたぞー!」と吹聴し、秋月軍の統率が乱れたところを反撃して秋月軍に大きな損害を与え、軍勢を押し返しました。

翌4日夜、今度は種実自ら2,000兵を率い、臼杵鑑速、吉弘鑑理の陣に夜襲をかけました。なぜ、この二将を狙ったかに突いては推測ですが、道雪の陣は常に臨戦体制が整っていて、夜でも火縄銃の火縄を絶やさなかったと言われ、ここを攻めても得るものは少ないと考え他のではないかと思われます。

種実の読みは当たり、夜襲など考えもしなかった二将の陣は大混乱となり、同士討ちが始まりました。これを見た道雪は急ぎ駆けつけて陣の混乱を沈静化させて夜襲を追い返し、二将の残存兵をまとめあげて、撤退を継続させたと言われます。

この戦いは「休松の戦い」と言われ、勝敗で言うならば大友軍の負けでした。この戦いで大友家の主力武将の多くが討ち死にし、特に戸次家は道雪の親族をはじめ九人の武将を失うという大損失を被っています。

そしてこの「休松の戦い」で大友が秋月に敗れたことで、筑前の国衆は再び勢いづき、翌月9月、宗像氏貞、原田隆種らが一斉に蜂起。せっかく落ち着きかけた筑前が再び混迷状態に逆戻りになります。

さらに宗麟を落胆させたのは、翌年西暦1568年(永禄十一年)、筑前立花山城主・立花鑑載が毛利方の調略を受け、大友から離反したことでした。

立花氏は大友家庶流で、南北朝時代からの重臣でした。なおかつ立花山城は筑前国内の要の城でした。そこを毛利に奪われたと言うことは、筑前における大友の実行支配力は著しく低下したことに他なりませんでした。

これらの策謀が、毛利元就の「闇の智謀」によるものであるならば、元就が有る限り、北部九州に安寧は訪れないということになります。

宗麟は「やはり毛利とは決着をつけねばならない」ことを改めて痛感したのです。

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