永正5年(1508)10月4日は武田信虎が叔父・油川信恵らを勝山合戦で敗死させた日。これが信虎の父と祖父による対立からの内紛を終わらせる甲斐統一への一歩。後に信虎を追放することになる嫡男信玄は版図を大きく広げるがこの甲斐統一が土台。名を残す人の下地は先を行く人が作っているなと。
天文10年(1541)6月14日は武田信虎が信玄によって今川義元のもとへ追放された日。以前は信虎と信玄は不仲だったとされていましたが理由はそうではなさそうです。もうすぐ父の日、そうであってほしいなと思います。信虎といえば私の中では子どものころ大河で見た平幹二朗さん。
今朝愛車(自転車)とともに 風をきって走らせたら、左手の目線に数秒一緒に走ってる感覚に驚いた! 赤トンボが現れたのです。 なぜか嬉しくなりました。 アキアカネというようで、 勝運とも勝ち虫とも!トンボはバックには飛ばない意味もあり昔の武将たちにも好まれ模様をつける武将がいたという
武田三代とは、信玄と勝頼と……? 当然、その先はなく遡るわけで、信玄の父の信虎を初めとした三代を、丁寧にまとめ上げたのが本書です。信虎については近日、映画「信虎」が公開予定。平山優先生も武田家考証として参加されているとのこと。 https://nobutora.ayapro.ne.jp/
天文6年(1537)2月10日は武田信虎の娘定恵院(信玄の姉)が今川義元に嫁ぎ甲駿同盟が成立した日。義元は前年の花倉の乱を経て家督を継ぎ武田家と婚姻同盟を結んだ。義元の外交方針転換に支援していた北条氏綱が激怒し駿相同盟は破綻。駿河へ侵攻すると10年近くに渡り富士川以東を占拠する。
大永元年(1521)11月3日は甲斐国守護・武田信虎の嫡男として武田晴信(信玄)が生まれた日。信虎の甲斐統一戦の最中で躑躅ヶ崎館ではなく大井夫人の避難先の要害山城で生まれた。前月の飯田河原合戦で今川軍に勝利した直後に生まれた男子だったため勝千代(太郎とも)と命名したとされる。
永禄10年(1567)10月19日は武田信玄の嫡男義信が2年間の幽閉の果てに死去した日。死因は自害か病死かはっきりしない。義信は傅役の飯富昌虎らと謀反を企て事前に発覚した。信玄は信長と結び対今川の方針転換を図っていた。今川氏真の妹を妻としていた義信はこの方針に反対したとみられる。
永正5年(1508)10月4日は武田信虎が叔父・油川信恵らを勝山合戦で敗死させた日。信虎の祖父信昌は家督を譲った信虎の父信縄にかえて次男信恵への相続を望み争いに。一旦和睦するも信昌・信縄が死去して信恵が信虎と対立していた。信虎はこの勝利により一族の内紛を鎮め甲斐統一を進めていく。
天文10年(1541)6月14日は武田信虎が嫡男の晴信(信玄)により娘婿の今川義元のもとへ追放された日。以前は信虎の様々な悪行や晴信との不仲が理由とされた。最近は理由も見直されており、度重なる戦や飢饉など重なり国人衆の不満が爆発しないよう晴信や重臣が抑えるため動いたともいわれる。