【第12話】富士吉田の合戦 遠州もののふ 松井家地侍 井戸六輔薫長【完結】
終わってみれば、夜戦も今川軍の完勝であった。
岡部左京進の素早く堅実な初動対応によって騎馬軍団は分断されることとなり、今川本陣に届き得たのは二〇〇程度。武田左京太夫信虎は先行する騎馬隊に一二五〇人、後に続く部隊にさらに一〇〇〇人を費やしていながら、岡部左京進とその後背についていた孕石主水の陣を突破することができなかった。
最も被害が甚大だったのは、その孕石隊だった。およそ五百人の部隊が、一度目の突撃の際に二百人以上が犠牲となり、岡部左京進と共に前線を支える為にさらに百人以上が傷を負った。
しかしその奮戦が瀬名伊代守の陣を間借りしていた松井左衛門佐宗信の後詰めを呼び、さらに周囲の部隊からの救援が来るまでの時間を稼ぐことにつながった。
「俺はもうそれどころじゃなかったよ」
後退した孕石主水の代わりに岡部左京進の後背についた松井左衛門佐の陣内で、阿多古為五郎薫俊は頭を抱えて言った。
「関口殿に陣借りをしていたがな、掛三郎と静次郎がな、どっちが俺の役に立てるかって喧嘩しだして、清次郎が掛三郎を斬っちまったんだ」
全身を包帯でぐるぐる巻きにされている井戸六輔の前で延々と愚痴をこぼしている。
「関口殿は怒るし、清次郎も腹を切ろうとするし……ああぁもうどうすりゃいいんだ」
「…………そうか」
目が覚めて包帯まみれの自分を見てから全身が痛くてたまらない。うかつに座り直したり寝転がったりもできない六尺漢は耳障りな同僚を追い払うことができずにいる。
「それに比べてお前ときたら! 普通に前線で戦って首を取ってお役御免! かーっ! さぞかし褒美はたっぷりもらえるんだろうねぇ、うらやましいよ!」
「…………そうか」
この男はすぐそこにいる包帯男が目に入っていないのだろうか――そろそろ頭突きの一つでも喰らわせてやろうかと思った時、陣屋の垂れ幕を上げて松井左衛門佐宗信が入ってきた。
「やはり為五郎か、外まで聞こえていたぞ」
「よう、八郎」
軽薄な挨拶を交わして為五郎は床机から立ち上がった。
「俺はそろそろ行くわ。ご苦労さんお大事に」
ぞんざい極まりないいたわりの言葉を残して為五郎は帷幕を出て行った。
その間、六輔は一言も発さなかった。いや、発せなかったというほうが正しい。
六輔には責められるべき不敬があった。主君である松井家の重臣、松井主計宗保に対して暴言暴論を吐いた。当然、主計宗保は軍法に則って処罰するよう訴えでた。それは六輔を庇った八郎宗信に対しても同じである。至上の命令を遂行する為に中間を軽視してよいという例はない。六輔は傷を癒しながら首を打たれるかもしれない沙汰を待つ身であった。
空いた床机に腰掛けた八郎宗信の顔つきは真剣そのものだった。そこから出てくる次の言葉は六輔には予想ができず、ごくりと唾を飲み込んだ。
「叔父殿には、収まっていただいた」
文字通り、荷を下ろすかのように肩を落とすと八郎宗信は続けた。
「もともと、本気でお前の首を刎ねようという気はなかったはずだ。終始ふんぞり返ってお前たちを許してやると言わんばかりだった」
ただし、六輔が無礼を働く理由があったことを立証する為に、岡部左京進親綱と太原崇孚雪斎が召喚されて弁証させられる必要があったという。
「もちろん、二人ともお前の為に認めてくれた。しかし、それだけの大物が呼ばれるとなると、太守様のお目通りも必要だ。つまり、左京進殿と雪斎殿は太守様の前で叔父殿に頭を下げた形となる」
「ばかな」
六輔は愕然とした。岡部左京進は今川家を担う武将であり、太原雪斎は主家一族の摂政役だ。彼らに頭を下げさせるような訴訟など、内密に折衝して取り下げるべきだ。
「良くも悪くも、松井の名は取り上げられることになるだろう」
かまどに火を入れて薬湯を点て始めて、八郎宗信が呟く。
「俺としても肚を括らざるを得まい。叔父殿ははっきりと俺から城を奪うつもりだということだ」
火はたちまち強くなり、鍋の中で薬湯が煮えていく。
「六輔、お前の力が必要だ」
熱い薬湯が注がれた椀を差し出して八郎宗信は告げる。
「お前の武功は皆が認めている。同時に叔父殿に怒鳴り散らしたことも知られている。その二つを秤にかけた時、左京進殿に頭を下げさせた叔父殿に今は力があるとされている。だからお前に、兵部の名を与える」
「……兵部?」
「太守様にもお目通りかなってお許しいただいた。我が松井の家は左衛門佐の位の他にも兵部少輔をいただいている。官名のみであり、実際の位ではないが、俺の名の下であればお前は松井の軍の筆頭となる」
「俺に箔をつけることで、味方を増やそうってことか」
「あぁ、その通りだ」
笑いたければ笑え――八郎宗信の目はそう語っていた。
「これは骨肉の争いだ。負ける訳にはいかぬ。地位や金や土地で釣れるならどんな奴でも釣る。その為にまずはお前を引き上げるのだ」
「手柄を立てれば引き立ててやる。唐の物語みたいな事をするんだな」
「叔父殿は実力と権威で戦う。ならば俺は家格と恩賞で戦う。勝つ。なんとしてでも勝つ。勝たねば、俺は塵芥と消えるのだ」
六輔は想像した。浅ましい権力争いを行う八郎宗信と主計宗保の図を――かねて学んだ絵巻のような、あるいは風神雷神図のような……
「ここに来て……一日か二日か、左京進殿の下で働いた」
我知らず、六輔はうわごとのように呟いた。
しかし実際には、その声は確かな質量をもって二人の鼓膜を叩いていた。意志のある言葉を六輔は口にした。
「義というものが、少しわかった気がする」
「六輔……」
家臣というだけでは括れない同輩の巨漢の、その正体を八郎宗信はわずかに不安がった。六輔が語る義とはどういうものなのか、それは八郎宗信に与するものなのか――
不吉な想像に身構えた八郎宗信に、井戸六輔は口の端を挙げて息を吐いた。笑ったようだった。
「主計殿に力があろうが、所詮は叔父に過ぎぬ。お前から家督を奪おうなどというのは、義に悖るというものだ」
包帯まみれの身体で可能な限り、姿勢を正した。あぐらというよりは奇形の蛙めいた格好だが、しっかりと頭を下げた。
「左衛門佐殿。兵部の名、ありがたく頂戴致す」
この後、富士吉田の戦い――今川氏にとっての万沢口の戦いは、富士山を挟んだ東側から北条氏の兵が山中に攻め込んだ事により、一挙に終息に向かう。
岡部左京進親綱が進言した通り、北条左京太夫氏綱は今川勢との連絡が取れない状況でも軍を進めて、武田左京太夫信虎の後背を突いた。
今川と北条の兵は合わせて三万を超えた。数に劣る上に二方面から攻め込まれては、強兵で鳴る武田勢といえども反撃することが出来ず、侵略された山中、身延を取り返せないまま季節が変わり、今川氏と北条氏は悠々と収穫を終えることが出来た。
戦線を安定させる事に成功した相駿両軍は、このまま躑躅ヶ崎と呼ばれる甲斐国府まで攻め込もうと軍議を重ねるが、左京太夫信虎は嫡子太郎と婚姻を結んだ関東の上杉氏に協力を頼んで相模国を攻めさせた。
本拠を脅かされた北条左京太夫氏綱は無念の思いで退陣を告げる。今川駿河守氏輝は対等な同盟関係といえども、倍以上の年齢差がある左京氏綱が相手では相模を捨ててでも甲斐を攻めようとは言えない。結局、両軍は武田左京太夫信虎に停戦の使者を送り、互いに兵を退くこととなった。
井戸六輔薫長は松井左衛門佐宗信と話した後、全身の傷が高熱を発して起き上がることも出来なくなったが、持ち前の体力で乗り越えると、戦線に復帰した。
大規模な戦闘は起こらず引き上げることとなったが、六輔の手柄は屈指の武功と讃えられた。
入城の儀を終えると、六輔は真っ先におしのを預けた寺に走った。巨体を震わせて石段を上ってきた男に境内の掃除をしていた小坊主が驚き慄いたが、事情を承知している高僧におしのの部屋に案内してもらった。
障子を開いた時、六輔もおしのも互いに驚いた。六輔は妻と思っていた女性の変わりように、おしのは突然現れた夫に――
「だ、旦那様……」
おしのは驚き、戸惑った後、顔を伏せた。かつての己の罪を今また悔恨したのだが、彼女の夫は、そんな出来事はすっかり失念して、妻の変化に全身を震わせ、紅潮していた。
「しの……お、おまえは……」
「は、はい……」
「おまえは、そんなに美しい女であったか……」
「え……」
後ろの高僧が思わず噴き出すほどに間の抜けた六輔の言葉だった。
しかし六輔にとっては掛け値なしの真心からの問いであった。
「あ、いや……わからぬ。わからぬが……そ、そうか、それが、おまえの子か……」
「あ、あの……旦那様のお子にございます」
おしのは女にしては高い背をすこし反らせてみせた。寺の白衣を纏ったその腹は丸く膨れており、新たな命の存在を証立てている。
「この前、すこし動きました。旦那様が帰ってこられるのを待っていたのかもしれませぬ」
「…………」
六輔は雷に打たれたように立ち尽くした。
おしのを見る六輔の目はまったく変わっていた。かつても女体の魅力を好みはしたが、その時とはまったく違う魅力を感じていた。腹の底から湧き立つ充足感。宙に浮くような心地だった。
よろよろと動きだした六輔はつんのめるようにひざまずき、妻の腹をさすった。
「し、しの……どうだ、さ、寒くはないか」
ようやくひねり出した言葉まったく荒唐無稽なもので、おしのの笑いを誘うものだった。
万沢口の戦いは甲斐国にまで攻め込んだ今川氏の勝利となったが、奪い取った身延の地は駿河国からは交通の便が悪く、支配地として維持することが難しく、放棄することとなった。領土として得るものは少なかったが、武田左京太夫信虎を相手に優勢を勝ち取った今川駿河守氏輝の武威は天下に鳴り響いた。
太守氏輝は戦後の賞詞俸禄を宣言し、繁栄を約束された今川家臣団は各々の領地に引き上げて新年の春を大いに祝うのであった。
――了
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