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マコモ武田信虎

戦國時代で武田と言えば信玄と多くの人がイメージすると思いますが、戦國最強とも呼ばれた武田軍団も信玄の父、信虎が土台を築いていたからこそ。
ということで信玄パパを妄想しながら、マコモダケを料理した記録。


材料

マコモダケ    3本
鯖        1尾
胡麻油      適量
オイスターソース 大匙1
醤油       大匙2
酒        大匙1
花椒       小匙1
黒摺り胡麻    たっぷり
米粉       適量

明応三年(1494)又は明応七年(1498)生まれと推定されている武田信虎。
武田氏は伝説的な武人、八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光の子孫で源氏の名門。
甲斐に土着してきたが分家を領内に配置。そうなるとどうなるか?
下剋上の戦國時代になると本家の座を巡って内紛。そういう状態に信虎は生誕。
父の信縄は弟と家督争い。その父が亡くなり、十三歳で信虎が家督を継ぐと又もや父の弟、つまり叔父の油川信恵が家督を主張。
いきなり叔父と争わねばならなくなった。


マコモダケを短冊切り。

他にも問題山積。
叔父ばかりか他の一門や有力國人も武田家に従わない。
大井家や穴山家は武田一門でありながら隣国、駿河の今川氏を後ろ盾にして本家に対抗。
そのため信虎は今川氏とも戦わねばならなくなった。
内も外も敵だらけ。
そうした敵を各個撃破だけではなく、大井氏と和睦して大井信達の娘を正室に迎えた。その間に生まれたのが運命の子、勝千代(後の信玄)
今川氏とも和睦成立。自分の娘を今川義元の正室として縁組。
こうして甲斐一國を統一。


食べ易い大きさに切った鯖に米粉を塗す。

それまで武田家は山寄りの石和を本拠としていたが、信虎は盆地の中心、府中に館を造営。都を真似た碁盤の目の町作りを進めて、此処を甲府と名付けた。
つまり現在の山梨県の中心部、甲府を開いたのは武田信虎。
信虎が築いた躑躅ヶ崎館は現在、武田晴信命つまり信玄を御祭神とする武田神社になっている。


武田神社。

嫡男、晴信(信玄)も立派に育ち、初陣も済ませた。これで安泰と思ったのか、信虎は今川家に嫁いだ娘の所へ。今川家へのご機嫌伺い?
甲斐に帰還しようとした時に起こったのが信虎追放。
國境の關所が固く閉じられ、信虎一行の通行を拒んだ。
晴信の命令によると知り、止む無く歸國を断念。駿河へ戻り、今川家に身を寄せた。
晴信による家督強奪として名高い。
この事件については諸説あり、原因がはっきりしない。
信虎が暴君で家臣や領民の反発があった?父子相克?等々。


調味料を混ぜ合せる。

それまでの度重なる戰で領民には重税が課されて、雑兵や人夫として駆り出されることが多かったので不満を持つ者が多かったのは事実。
更に当時、飢饉発生。
天災とか飢饉は為政者に德がないからという思想があり、それも信虎が國主に相応しくないと思われる一因にもなった?
信虎が暴君だったという説でよく引用されるのが、妊婦の腹を裂いて胎児の男女の区別を見たという話。
これは誰かを暴君とする時にはよく使われる話で徳川家康の長男、信康や武烈天皇にも同じ話が傳わる。つまり牽強付会。


鯖を両面焼く。

信玄と不仲だったのかというと、それも疑問符。
信虎の今川家での生活費は実は信玄から出ている。
今川家に引き取ってもらう条件だったのかもしれないが、信玄は律儀に仕送りを続けた。
それを得た信虎は側室を呼び寄せて子も成し、都や奈良等に足を伸ばして悠々自適な隠居生活。
ここから妄想するに、追放劇は親子で示し合わせた芝居。
普通に家督を譲るより評判が良くない父を涙を呑んで追放という方が、家臣や領民への信玄への受けがいい。
信虎も國主の座を離れて、駿河を拠点に天下の情勢を探るという役目を買って出た。


鯖を取り出してから、マコモダケを炒める。

山國の甲斐よりも東海道が通っている駿河に居た方が情報も入って来るし、自身も動き易い。都へ行ったのも物見遊山ではなく公家や幕府の要職との交際が目的。
婿の今川義元が桶狭間で信長に討たれると、跡継ぎの氏真は凡庸だから駿河を取るなら今だと、信虎は信玄に書状。
それが露見したのか、駿河に居づらくなった信虎は都に常駐。幕府の十三代将軍義輝や十五代義昭に近侍。
将軍家は源氏、信虎も甲斐源氏という同族の誼が物を言った。
やがて信玄が上洛作戦を開始。信虎は都で根回し。
こうして見ると、信虎と信玄の親子は連携している。やはり追放は芝居。


鯖を戻して調味料と花椒投入。

德川織田連合軍を三方ヶ原で鎧袖一触。都に迫った武田軍でしたが信玄が死亡。(病死?暗殺?)
息子に先立たれた信虎は武田家の領土になっていた信濃へ。高遠城に居た信玄の弟というか、自分の息子である武田信廉の元に身を寄せた。
そこで信玄の跡を継いだ孫の勝頼とも対面。
まだまだ武田家のために働くつもり?
老いて益々盛ん。
しかし信玄死去の翌年、天正二年(1574)に寿命が尽きた。


マコモ武田信虎

黒摺り胡麻をたっぷり塗して完成。
鯖の身が少し崩れているが、それだけ柔らかく食べ易いと思うべし。しっかり焼いたマコモダケのシャキシャキ食感とのコントラストの妙。黒摺り胡麻が香ばしさを加えてくれる。オイスターソースで甘めな味わい。その中に潜む花椒がピリッとアクセント。胡麻たっぷりということで抗酸化料理。鯖からDHAやEPAも摂取。マコモダケはA,C,Eとビタミン豊富。食物繊維たっぷりで腸内環境も改善。

信虎が駿河でもうけた子は信友と名乗り、こちらも駿河の内情を甲斐へ知らせる役目を担っていたという。信虎死後も武田家のために働き、武田家滅亡に伴い、織田家により処刑されている。
源氏の名門である武田家を守らねばならない。そのためには自身が追放されたという汚名を被って、高度な諜報活動をしていたのではないかと武田信虎を妄想しながら、マコモ武田信虎をご馳走様でした。

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